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人は人の世話をする

70前のアメリカ人の友人は言う、老後、誰にも面倒をかけたくない、と。
私は、日本人だからだろうか、面倒をかけ合うのも、また人間というもので、人生の最後に体が利かなくなり頭が呆けてきた時に、誰かの世話になることも、やはり人生をまっとうする一つの形だと思うのだ。

確かに他の動物はみんなひとりでひっそりと勝手に死んでいくかもしれないが、人間だけがお互いを気にかけ、世話をしたいという気持ちを持っている。人間の知力ゆえに、自分の最期をコントロールしたいと思うのもわかる、でも、知力ゆえに、人は他の人を細やかにケアするのだ。

それはすばらしい。愛情に満ちた行為だ。
呆けて幼児のようになった母を基本的にはひとりで介護したから、それがどれだけ長く続くかわからない中で、毎日、下の世話から食事まで面倒をみることがどれだけしんどくて、先が見えず、日々成長を感じ明るい未来があると思える育児とはまったく違う、死に向かうだけの行為の無力感、無意味感、気分の落ち込みがあるのは実感としてわかる。あんなに知的で生きることにハリのあった母が、こんなにその母らしさをなくしてしまうのかと、それを毎日目の当たりにすると、母が哀れで自分もなんともいえない寂寥感や絶望感に襲われたものだ。

でも、ある時点から、今まで私を生んで育ててくれ、いくつになっても子である私をずっと気にかけてくれた母の愛情の一生があったからこそ、その人生の終わりに介護という形で恩返しができてしあわせだとも思えた。母は幼稚になり、子供のいない私にとっては、子供のような純真な存在になった。

介護を家族や愛する人にさせないように自分でコントロールするのはその人の意思で、自由だ。けれども、老人介護の問題は、すべてが自分の自由になると思いこんでいる人間の落とし穴のような気がする。

文明の最先端で、職業的成功や素敵な家族を築いていたとしても、時として自分の自由にならないこともあるのだ。人間もやはり生き物でしかなく、いつかは朽ちて死んでいく。
何を安らかな終焉と思うかは、人それぞれだ。でも、世話をしてもらうことで、世話をする側も負担だけではない別の気持ちを発見するかもしれない。人生はすべてをコントロールできるわけではない。

看護師養成学校の先生で、自分でも両親の介護をした年配の女性は、言い切った。母の介護で終わりのないトンネルの中にいた私は、何度その言葉に救われたかわからない。
「介護という仕事は、これまでずっとやってきたけど、やっぱり一番いい、一番誇りを持てる職業だと思ってます」


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