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【長編小説】分岐するパラノイア-schwartz-【C37】

<Chapter 37 幸せなんかじゃない>


 中村麻衣子は生まれ変わったのだ。
《あのこと》のあと集まっていた人間たちは幻のように去っていった。去って、という表現すら使いようのないほど綺麗さっぱりいなくなった。
 麻衣子の妊娠がわかったのはその半年ほど先だ。相手は同じ職場の年上の男だった。
それまでもかなりわかりやすいアプローチをかけられていた。集まりがあった時はそれを理由に断り続けていた。しかし集まりはなくなり、時間に余裕ができてしまった。麻衣子は断る理由がなくなったのと、おそらくはある種の寂しさを感じていたことでそのアプローチを受け入れた。麻衣子はその寂しさを自分を猫可愛がりする年上の男で埋めようとした。その結果望まぬ妊娠という結果になってしまった。
 その男は既婚者であり、子供もいるのだ。麻衣子は性格上さっぱりしていて、年齢よりもしっかりしていると人から言われる。同年代の男が麻衣子と付き合うと、プライドを傷つけるらしく長続きはしなかった。しかし年上の男はそうではなかった。若い女だというだけで甘やかすし、ちょっと頼ってあげれば闘牛のように寄ってくる。男はプライドをどこかの道端に捨て去ってきたかのようにはいはいということを聞く。
かと思えば、聞き分けがよくあまりお互いに依存しない状態であれば男にとっては都合がいい。
 そんな性質が麻衣子にとっても同じように都合が良かった。既婚者であれば一緒にいる時間は限られるし行動も制限される。そのぐらいの距離感が麻衣子にとっては心地よかった。そもそもベタベタしたりやたら愛を語るなどは気持ちが悪いと思っていた。年上の既婚者で過去そういう男もいたが、妻がいるのに別の女に手を出している分際で語る愛などペッティングのようなものだと考えていた。
愛のない愛の言葉はそれはそれで気持ちがいいのだ。
 そういうプラトニックな恋愛観は若い時からであった。同年代で恋愛や色恋で悩む女子を見て嫌悪感しか感じなかった。正直なところ、那実にもそういう感情がないわけではなかった。
「ありがとうね。わざわざ来てくれて」
麻衣子は那実の自殺から一ヶ月たった頃、那実の実家を尋ねた。那実の両親は麻衣子と頼りなさげな男を軽やかな挨拶で迎えた。
「いえ。もう一度ちゃんと那実にお別れが言いたくて」
仏壇に手を合わせることと、那実の自殺を知らなかったこの男を連れて行くためだった。
麻衣子自身は那実の家族とは葬式以来だった。
 軽やかな挨拶とは裏腹に両親の表情は一ヶ月経っても葬式の時の顔とさして変わりなかった。
那実には兄弟姉妹はいない。一人っ子である。その愛娘を亡くした父は一ヶ月が経った今でも泣いているのだろう。目が真っ赤に腫れている。那実の母は実際の年齢よりも若く見える。こういう場合、どちらかと言えば母親の方が気丈に振る舞えるものだ。普段は偉そうに講釈をたれたり説教をしてふんぞり返っている男はだいたいが役に立たない。もちろん母親の表情も辛さを隠せていないが、それは人として、親として当たり前であり、その上で麻衣子と素性のしれない男にもきちんとなけなしの笑顔を向けている。
父親は真っ赤に腫らした目を隠すこともなく、顔の筋肉は力なく重力に従っている。肌の血色も悪く、
まともに食事ができていないことや質の良い睡眠がてれていないことがわかる。
母親は、まだ仏壇に手を合わせに来るお客がちらほらいることを承知していて、きちんと化粧をしている。
そのおかげで肌の血色はよく見える。まるで百貨店にあるマネキンのような肌色――今ではうすだいだいというらしい――を再現できていた。唇には真っ赤なルージュがひかれている。おおよそ喪に服しているとは思えない、バブルを思わせるほどの赤、いや紅色。でもその紅色は母親の心の強さを表していた。
頼りなさげの男は、父親の青白い顔色と母親のマネキンメイクを見比べて、バランスの悪さに少し笑いそうになっていた。この男はそういう男なのだ。悪気や悪意はない。ただ、おもしろいことをおもしろいと思いたいだけなのだ。それが一般的に常識はずれや失礼無礼に当たることで他者から叱責されても、咎められても彼にとってはとるにたらないことだった。そこには見た目以上の確固たる信念と論理を隠していた。
青白い父親は二人を仏壇が置かれている部屋に案内した。やはりまだ来客はあるのだろう。座布団が数枚、
立派な分厚い木製の机の周りに並べられていた。父親が座った場所の向かいに二人は座った。その間、青白い父親は何度も瞬きをして祭壇の上の那実の遺影を眺めた。麻衣子と男もそうした。
那実の遺影を見始めてすぐ、数分もたたず母親が人数分の飲み物と茶菓子を持ってきた。
「わざわざありがとうね。えっと、あなたは」お茶を出しながら麻衣子のとなりの男の素性を聞いた。
その男が軽く自己紹介をすると合点が入ったような顔をした。
「あぁ。キュウマニイチャン、と言っていたのはあなたのことだったのね。話はよく聞いていたわよ」
那実の父と母はなるべく言葉を選び、《キュウマニイチャン》と呼ばれる男について知っていることを、
本人に確認するやりとりが数分続いた。そして話は麻衣子の近況の話になり、本題に入る。
那実がいなくなったことを悔やむ言葉が出る。しかし誰も発見時のことは何も話さなかったし麻衣子も男も聞かなかった。
 ただ那実の生前の話をした。朝が苦手だったのに、朝からちゃんとバイトに行くようになったことや
バイト先の人と旅行にも行ったりしていたことなど、麻衣子は黙ってうなづいていた。隣の男はまだ信じられないと言った顔でお茶を見つめている。父親が口を開く。
「それが何でかわからんのやけど、こうなったんよ。わたしらも原因がわからんままで。いつもと変わらんかったのになぁっていつも言いよるんよ」
「那実は何でも抱え込んでしまうところがありましから。もしかしたら何か彼女にしかわからない悩みがあったのかもしれませんね」
麻衣子はトーンの下がった声で答えた。
「ねぇ、どんなことでもいいから何か聞いてないかしら?」
母親は男の方に身を乗り出している。麻衣子がすかさずフォローする。
「久馬にいちゃんは那実に会うのは今日が久しぶりなんです。しばらく会ってなかったようでこのことも知らなくて。だから今日ぜひに、ってことで」
「そうだったの。昔は仲が良かったわよね。一時期いつもあなたの名前が出ていたわ。その時は褒められたような生活ではなかったけど楽しそうだったわね」
男は何も言えずに黙って祭壇を見た。遺影には見覚えのある顔の写真が飾ってある。麻衣子は自分の子供を紹介している。那実の母はその子たちにはジュースやお菓子を用意していた。
子供は麻衣子の顔を確認するように見る。
「ちゃんとお礼言ってからいただいてね」
麻衣子がそう言うと二人の子供はつたない言葉でお礼を言ってお菓子を食べ始めた。
麻衣子は《あのこと》の半年後、とある既婚者と親密な関係になった。そして妊娠して子供を産んだ。麻衣子はこの子供を育てることにした。その子供は今、オレンジジュースを飲みながらポテトチップスの袋に手を突っ込んでいる。
「ほら、よそ見してるとジュースこぼしちゃうから。コップはちゃんと両手で持って」
机の上でグミを並べる幼女は、その数年後に生まれた。この子も上の男の子と同じ既婚者との子だ。
麻衣子はその既婚者に対しての愛はわからずにいたが、自分の体内で育み、自分の体から出てくる生命体は愛おしくてたまらなかった。だから男が調子に乗って欲望を発散させ二人目を妊娠した時、ヘラヘラとしていたことには何の腹立たしさもなかった。子供が産まれた後の麻衣子は見た目がよく、何かあったときのための経済力があって自分の言いなりになる男なら誰でも種馬と考えるようになった。愛は男からではなく子供から感じ取っていた。
「何があったんやろか」父親が下を向いてぽつりと言葉を落とした。
それからも那実の生前の話をいろいろ聞いた。隣の男は驚きながら聞いていた。一時間ぐらいしてそろそろ帰ろうとしたとき那実の両親は名前と連絡先を書いてくれと言ってきた。
男が描いた後、麻衣子にメモ帳とボールペンが回ってきた。
そのボールペンはかわいらしくたまたま家にあったから使っているという事務用品ではなく、明らかにこの家にいた娘が使っていたものだった。
ノック式で、ノックするところに小さなハートのチャームがついている。
麻衣子はこのボールペンを知っていた。那実のものだった。当時の麻衣子はこのボールペンがカチャカチャなるのがうっとおしかった。しかもこのボールペンは隣の男が昔プレゼントしたものである。
そのことを当の隣の男は気がついていなかった。うっとおしいボールペンで名前を書く時、麻衣子は既婚者の苗字で書いた。《中村麻衣子》ではなく、《岡田麻衣子》と。麻衣子は公的にも、《中村麻衣子》であり子供の苗字も《中村》でこのことに何も不便さや悲しさ、寂しさなんて感じたことはなかった。
しかしどうしてか、このボールペンでは《中村》と書くことを許さなかった。麻衣子は書き終わったメモ帳とボールペンを母親に返す。その視線の先に屈託なく笑う那実がいた。帰りしな、もう一度手を合わせて帰ることになった。男の背中はみっともない。何も知らず今更この祭壇の前で手を合わせる男を麻衣子は足蹴にしたかった。男と入れ替わるように祭壇の前に座る。父親と母親はみっともない背中の男に最後の挨拶を交わしている。
「那実もよろこんでると思うわ。今日はわざわざありがとうね」
「また機会があったら会いにきてやってくれよ」麻衣子は手を合わせ、写真の那実を見る。
「生きてたって、幸せなんかじゃないから」那実にだけ聞こえるような声でつぶやいた。
麻衣子自身もこの言葉の意味がわからなかった。
でもどうしても言いたくなったのだ。むしろ、那実が生きている時に言いたかったのかもしれない。
生きてたって、幸せなんかじゃないから。






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