動物体の社会

からだ本体が人間だと考えるのなら、子供から大人になる変化の差が大きいほど不自然な社会ということだ。現在のように頭で体をしつけていく社会だ。

今の時代は個性化ではなく模倣化だ。各人からみたら外部にあるやり方に沿わすことができるかどうかだ。生として不自然なことをしていく。各人の個性的な能力を手に入れることに社会的な価値がなければ無意味といわれるから、模倣、マニュアル化、正しさに沿った作りに従って、個性を否定して大人になっていく。自己として矛盾をした自己になっていく。それは不自然だ。最大の自分に向かう自然の生の最大化ではなく、最大限自分を機械化していく不自然な仕方が目指されていく時代だ。

すでにあるやり方で誰にでもできるのなら、新しい川筋を作ることとは別の、流量が変わる話だ。アイデア段階まで遡れば、水を汲んで持ってこさせれば川を作れるという主張に従っているだけだ。地上的な発生ではない。

格差が小さいうちはまだ、格差社会と言われる。しかし格差があまりに大きくなりすぎると階級制社会になる。理想社会のために全てを計算して制御しようとしても無理だったのだろう。

北の生活と南の生活ではバランスの取れた基準になる日常が違ってくるのではと思う。バランスを取るのであれば、情報によって市民を動かし操作しようとするのではなく、静かな情報で考える時間がある方がいいのではないか。

現代人は、楽しい感情は外部からもらい、怒りの感情も外部に怒らされて、自分の核から生まれた感情が乏しくなっている。外部的な楽しさと怒りを信じることで、自分核を使用しなくなっている。

そんなにいつもいつも感情が大きく動くようなことは日常生活にはない。感情を動かしてもらうことに中毒している。人々は反応したものでビッグデータ化されて、感情を分断されてしまっている。

自己の制御を手にしていない状態にされた人を大衆といい、子供から見たら、人造の理想仮説に制御される人々の社会を大人の社会という。

推論をするには他者の目を想像することが必要で、関係性が必要。情を捨て理で区切ってしまうような敵友世界ではマトを得た推論をすることはできない。分析は外部に出なければできないからだ。

問題解決のために大人のいうことを聞くなではなくて、若者に理解されたい大人のいうことを聞いてはいけないということだ。産業がスポンサーについている有名人が持ち上げる若者論が人生の機械化、能力主義へ案内する。テクノロジーはかつての奴隷の位置にあるのだとしたら、なぜ我々がわざわざその奴隷に張り合うために自分を変えなければならないのだ。自ら奴隷の地位にくだり、テクノロジーには叶わないがなどというのだからテクノロジーの下層じゃないか。

10年代前半は、SNSを使っているだけで進歩的と思われた。10年代半ばになって、若者は進歩的というテイで情報が作られていった。その時代に今の形のブランディングができて、善と悪の物語で煽動するようになったのはわかると思う。

情報に感情を煽られない社会がウェルビーイングだ。体から見ればよく眠ることができるのがウェルビーイング。感情を動かすために送られたのではない大事な情報から、静かに考える時間が持てることが社会に必要だ。それに平凡で刺激が少ない落ち着いた平和時の日常に退屈してしまうことや、静かな状況だと落ち着けなくなってしまって落ち着けない人々を肯定して、やかましさや刺激で中毒させる経済社会でなくなることがウェルビーイングだ。脱メディア業界、脱情報産業界がウェルビーイングの時代だ。

語るべきものが違う。聞き入れるべきものを間違えている。話が逆になっているのに気づいていない構成になっている。

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