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本棚物語

本ではなく本棚で、本棚さんそのものではなく本棚物語のようなものだ。

僕は本を買ってしまう。つまりはフェチの対象としての本という面もあると。伝わらないかな、物神性というかだ。場所に神を感じるなら聖地だし、情報に神を感じると理想界、意識高いとかかなーと思う。つまり物に神を感じるとフェチだっていうこと。単語が大袈裟かつ聖と俗の振れ幅が大きくてピンときにくいかもだが。

たくさん本を持っているけど、実際に読んで栄養になった本は一部かもしれない。そしてふたたび読む本もあるので、気になって買ったけれど未消化なままでいる本さんもいる。

現実はそう理想ばかりではない。親しい本、近しい本だけを手元に揃えるというわけ(?)にはいかない。もっともらしくいうと、学問は誰の味方もしないから信用できるのであり、自分の範囲内だけで本棚が出来上がってしまったら、それは自分神殿になる。自分に対抗する本もほどほどにラインナップできなければ学問と方向を変え、自分の広がりから離れてしまうだろう。それはともかく、本棚さんの話に戻る。


本棚に関しての物語のようなもの。つまりは、ドーナツの穴のようなもの。本棚さん空間のお話だ。そしてウチには本棚さんが複数いる。


文庫本というものは小さくてかわいい。逆に中身は渋いものも多く、かわいくない傾向かもしれないが、小ささがかわいい。

時は残酷なもので、お別れは訪れる。しかし文庫本は定番が多く、お気に入り化しやすい。文庫本さんは地味に増殖しつづける。だから文庫本が独立して文化文明を作りはじめる。いやともかく、文庫専用の本棚として独立していった。

本の大きさが違いすぎると棚への収まりが悪い。すると新書はどちら側にいっていただこうかなとなる。その結果、新書、単行本、雑誌、図鑑、アート作品集などはクールラックさんたちに着地している。


その中で時々配置換えをする。どうも背丈やジャンル、あいうえお順に並べてしまいがち。文庫と新書は出版社別にしてしまう。見た目が揃うからだ。すると今度は僕と近しい本たちが散り散りになってしまう。そこで上段に集められる。でも意外なほど少ない。

本棚の中の本たち。読んだ本と読んでいない本があり、読んだ本の中に印象深い本があり、その中にまた読もうと思う本がある。その中に自分のなにかに近かった本がある。この人たちが私というドーナツの穴の人たちで、これをみていると自分の内面がどことなく読めてくる。

社会で例えれば、専門性は周囲の人々に必要とされる。その周囲の人にはなくて、必要として専門能力を囲んでいる。社会からみたら穴があって、その穴が専門性という誰かの能力なのだ。

気がついたら見えてきたドーナツの穴。それって、私の中にあるなにかなのだ。いつかじわっと見えてくる。そういうなにかを僕に運んでくれるのが、本棚に並ぶ、親しい本、近しい本だ。


本棚はそれを、形式的に僕に見せてくれる。混沌から生成される場、宇宙のような空間だ。また小説などを読むと、自分の過去に行き今に戻ってくる。そうしているうちに将来の想像が変わってくる。昔はタイムトラベルと言ったが、現代的に修正するとそれは、パラレルなもの。あったかもしれない私に横移動する。

パラレル移動するために、これまでのレイヤーを振り返り、その欠けを理解し取り戻しに行ったり成仏させたりする。過去を補充し今を楽にし私の「穴」を明らかにする。こういった作用が小説にはある。本棚はその空間になり、その雰囲気を自分に見せてくれる。


活字、文章、物語の力を自分に使うには、私たち自身、読書力を強化する努力を要する。合理思考が人々をケチでめんどくさがりにする。なにを削ってなにを薄皮一枚でも取っていこうかと。

世の中もっとお気楽で間に合うはずだし、努力できるものを発見したらめちゃアドバンスなはずだ。しかし残念ながら思考はショートカットしようとし、内容も具体的になりすぎて固有名詞を目指してしまう。

そうして広い意味でのブランドばかりが目的地になってしまう。それはラベルの問題で、中身や質の話ではなくなる。だいたい同じだよと言ったって固有名詞が違うんだからこだわりは溶けない。ナチュラル思考とかいってもどんどん商売に当てはめられていく。それ自体は悪いものじゃないんで責められないけど、ぜんぜん気楽じゃないよね。

本棚の歴史は僕にいろいろな「穴」を教えてくれた。


追記。
いいんだけど、本棚でバタバタと倒れるのは新書が多い。単行本は少し自立しやすいのかもだし、文庫本は倒れても派手な感じがしない。

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