安悟ネタ話し

僕はメモをとる。買い物メモとかもあるけど、ここではそれではなく、思い浮かんだことを書くタイプ。それでパソコンやスマホのアプリでも書くのだが、最近だらだらとにかく浮かびすぎる。

それがそのうちに枯れてくるのかもだけど、もしかしたら、違うかもしれない。というのは僕が変わったからだ。自分なりの結論があるなと気づいて、それをいくつか書き出してわかった。それをつかんだら、なんだか文が書きやすくなった。

「なんとなくそのはずだと思う」という状態だったのだがそれを過ぎた。今は、自分なりの結論はこうなので、だから「当てはめればこうなるな」になった。なので、ちょっと、感想やら気づいたことやら、生み出しやすくなった。なったし、やろうと思ってやれるようになったのだろう。それをやろうとまだ思っていないけど。

そういうことで、気がつくとなにか気づいている。頭の中で何かと何かが接続されている。何かの刺激によって。

何かの刺激によってというのは、誰かと会ったりコメントがあったりどこかいったり情報が目に入ったりしたらその刺激になる。なのでまあ起きるたび書き残しておいた方がいいなと思うようなネタが浮かんでいる。

でもやっぱり、ネタが全部使えるわけじゃない。文字にしてみるとどこか大きくかけていることに気づいたりする。そうするとそれを埋める知が気になったりする。

それで本を読まざるを得なくなる。積読される本が、「なんとなく」集まったものから「当てはまる」ものになってきている。これは、、加速するのではないかなと思う。何がだろう?知かな。

なぜこうなったのか考えていたけど、明確な一言では表せない。けども、およそ、これ以上やるのがアホらしくなるまでやって切り離していった先に、何かしらのまとめが生まれたと思う。それでそのまとめられたものがいくつかになって、それがまとまって、これになったなと。(「暗黙知の次元」だ)

プレーンな現実さん(禅の哲学や美学)と、人造システムのゲーム(ポスト・モダンや社会分析、人類学)とこういったものと接している生き物の人間(精神分析や社会批評、〇〇史)と、体験とも重ねてね、ざっくりわかってくると、なんというのかな、アホらしくなってくる、時代性とか色々と。

でも同時に、「そーなんだねー」と気にならなくなってくる。今まで深いと思ってたものがアホっぽいと思ったのだから、気にならなくなってくる。

そうすると、自分の内部の能動性が活気付く。さらに中動態なのかな、めぐり型になっている。もしかしたら、悟りのやっすいやつなのかもなと。「坂口安吾!」って思ったけど、「吾」だったね。坂口安吾は割に合うんだよね、文学小説はあまり読まないのだけど。

それで坂口安吾は僕のパラレルなのだろうなと思ったのよ。自分なりの結論を持っているから、色々と批評もできるのだろうし。

あと、僕がそれなりに言葉にできるようになってくると、いつか自分が考えそうなことを考える人がいたなと発見する。それが僕の場合坂口安吾だったなと。他にもいるのかもだけど知らない。その出会いでパラレルな自分が広がるでしょ。読めばいいだけなのでめちゃくちゃ進みがはやい。

もちろん時代が違うし性格から能力から何もかも違うから、実際に同じ文を書くとは思えないのだが、内面の作りみたいなものが、いくらか重なるのかもなと思う。なので人によっては大昔の人物とパラレルかもしれないでしょ。たまたま意識が接続しちゃった文章と出会ったらそれなのだと思う。

話し、おわり。

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