「即」という名のアポリア 第31回

第30回はこちら
番外編その3はこちら

 さて、いわゆる「初期仏教」から話を始めて、アビダルマとか空の思想とか如来蔵思想とか唯識思想とか密教など、いろんな仏教思想を見てきましたが、一応これでインド仏教の最後の時代まで辿り着いたことになります。もちろん今まで述べてきたことは、インド仏教思想史のほんのごく一部でしかありません。時代が下るにつれて空の思想がどのように変容していったのかという観点から、「インド仏教思想」と総称される複雑極まる諸現象の一面をラフに切り取って言語化しようと試みただけのことに過ぎません。これがインド仏教のすべてだというわけではもちろん全くないし、この雑文で触れることができなかったインド仏教史上の問題は他にもいくらでもあります。ですが、この雑文が扱う問題に絡んでくるような重要な事象については、へっぽこ雑文なりに盛り込むように努めたつもりではいます。

 ともあれ、古い時代の仏教と番外編で扱った後期密教を比べると、インド仏教は古い時代にいた場所から随分と遠いところに行って滅んでいったことになります。これまで述べてきたことを大雑把に整理するとこうなります。

①「すべては空であり、いかなる『もの』にも自性(svabhāva)がない」という初期大乗の空の思想は、「いかなる『もの』にも空という自性が“ある”」という話に横滑りし、「空はすべてであり、空という理法=仏の法身がこの世のすべてを貫いている」という話になっていった。その結果空の思想は、「現象世界は幻のようなものである。だが、幻のような現象が生じたり滅したりするための『根源』であり『基盤』である仏の法身は永遠不変である」という一元的世界観の性格をそなえる傾向を見せるようになっていった。古い時代の仏教は、ブラフマンだの仏の法身だの大日如来だの「絶対無」だの「道」だのといった一なる「究極の根拠」を立てなかったが、ここに至って仏の法身は「究極の根拠」のごとき役割を果たすようになった。かくして大乗は、「最後の最後まで否定されない永遠不滅の『何か』が“ある”ある」「結局のところ『何か』が“ある”」という「有」の思想へと接近していった。

②このように仏の法身がこの世のすべてを貫いているというのであれば、この世のすべては(究極的な仏の境地からみれば)“本来的には”浄らかであり、ドゥッカ(苦)ではないということになる。そのため、インド大乗では時代が下るにつれて徐々に現世肯定的な傾向が強まり、古い時代の仏教とは逆に人間の「生」を肯定しようとする思想が生まれた。つくられた「もの」はすべて無常でありドゥッカであると説き、現象世界を“ままならぬ”不安定な「事態」として捉える古い時代の仏教思想とは逆の思想が仏教内部に生じた。このような新たな仏教思想においては、現象世界は“本来的には”、仏の法身という「究極の根拠」に貫かれた調和的で安定的なものだということになる。

③現象世界を肯定的に捉える傾向が強まるのに伴って、此岸(世俗の世界)と彼岸(「覚り」の世界)の距離が圧縮される傾向が生じた。大乗では生まれ変わり死に変わりを繰り返して気の遠くなるような時間をかけて仏になるという話だったのが、後期密教ではいまここの現世で仏の境地に到達できると明言されるようになった。

 すなわち、①一元的世界観への傾斜と「究極の根拠」の定立・②現世肯定的傾向の昂進・③此岸と彼岸の距離の圧縮という傾向が生じたということになります。あえて乱暴に言えば、初期大乗では空性を「±0」だと捉えていたが、時代が下ると如来蔵思想(仏性思想)のように永遠に不滅の領域を認める思想が出現し、さらに時代が下ると密教のように空性を「∞」だと捉える思想が出てきたというわけです。元々は空ということは「±0」だと捉えられていたんだけれども、「∞」だと捉えられるようになったわけです。これは結構な変容だと言わざるをえません。

 ここで『中論』の問題との関連で一言しておきたいのは、①の一元的世界観への傾斜は、特に中期大乗以降に強まってくる傾向であって、ナーガールジュナの『中論』は一元的世界観だとは言い難いということです。繰り返しになりますが、ナーガールジュナの思想は「AとBは同一でも別異でもない」というものであり、「AとBは一つである、すべては一つである」という一元的世界観ではありません。縁起を離れた一なる不滅の「全体性」を認めているわけでもありません。そのような「究極の根拠」を徹底的に斥けるのが『中論』の思想です。この問題について一例をあげると、例えば次のように言う人がいます。

 プラパンチャ(prapañca)は、普通のサンスクリットでは、「多様性」「他者化」、すなわち何かをあらゆる方向に向かって多種多様に変転、展開し、くりひろげていくこと、を意味するが、ナーガージュナの哲学的コンテクストでは、根源一者(「空」、「無」)が、様々な語の意味の示唆する分割線にそって、四方八方に分散し、散乱することを意味する。英語なら、semantic dispersion(意味的散布)とでもいうところであろうか。

井筒俊彦『意味の深みへ』岩波文庫

 この井筒俊彦(1914-1993)という人は、インド思想やイスラム思想や中国思想の幅広い知識に基づいて、「東洋」の思想に共通する問題を提示しようと試みた著作をいろいろ残した人です。井筒の著作は仏教に関心がある人にも読まれ続けており、いまだに影響力があるようです。

 しかし、少なくともナーガールジュナについては、『中論』の思想をこのように解釈することは文献的にはできません。この雑文で何度か述べてきたように、『中論』の思想は「根源一者」であるとか、絶対の「無」とでも言うべき「何か」を現象世界の根底に認める思想ではないし、否定神学の類でもないからです。『中論』の思想は、「絶えざる否定の果てに『何か』が残る」というものではありません。例えば、『中論』第18章第7偈にはこうあります。

[空性において言語的多元性が滅するとき、]言葉の対象は止滅する。そして、心の活動領域も止滅する。なぜならば、[諸法の]法性は、あたかも涅槃のように、不生にして不滅だからである。

桂紹隆・五島清隆『龍樹『根本中頌』を読む』春秋社

 この「[諸法の]法性は、あたかも涅槃のように、不生にして不滅」だという一節の「法性」を井筒と同様の方向性で解釈して、如来蔵や仏性や仏の法身や大日如来のような永遠に変わらない「何か」であるとか、現象世界の「根源」であるとか、「有」と「無」を超越した「絶対無」であるなどと言う人もいますが、そうではありません。これは、言語では言い表すことが不可能な、あるともないとも言えない絶対の「空」こそが真の実在であり「根源一者」なのだという否定神学のような思想を説いたものではありません。

 ここで言われているのはあくまでも、机や椅子やりんごやみかんといったいかなる「もの」にも固有の自性がなく、生じることもないし滅することもないということです(ちなみに、「あたかも涅槃のように」という箇所はサンスクリット写本ではnirvāṇam ivaであり、ナーガールジュナは、法性(法の性質)と涅槃が同じであると安直に断言することを慎重に避けています。この点にも十分注意する必要があります)。というのも、『中論』第13章第7偈には次のようにあるからです。

 もしも空でないものが何か存在するなら、空なるものも何か存在するだろう。しかし、[今まで述べてきたように]空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在しようか。

同前

 この『中論』第13章第7偈と、先ほどの第18章第7偈を整合的に解釈しようとすると、ナーガールジュナは「空なるもの」こそが真の実在であり「根源一者」だと言っているのだと考えることは不可能です。如来蔵(仏性)や大日如来といったような、永遠不変の「基盤」を認める後世の思想と同じことを言っているわけではありません。『中論』の空の思想と、中期大乗以降の「有」の思想を同じだと言うことはできません。ですので、先ほど私は「初期大乗では空性は『±0』だとされていたが、時代が下ると『∞』だとされるようになった」と乱暴に言いましたが、これは少なくとも『中論』の思想に即して言えば、厳密には語弊があります。厳密に言うと『中論』の思想は「±0」ではなく、「プラスでもマイナスでもゼロでもない。プラスやマイナスやゼロや有や無といったことばから離れたところに、言語化不可能な真実在の世界があるというわけでもない」です。繰り返しになりますが『中論』は、「∞」の領域を認める如来蔵思想(仏性思想)や密教とは違って、言語化不可能な永遠不変の実在の世界を一切認めていません(ただしこの雑文では、「プラスでもマイナスでもゼロでもなくて云々」とやっていると長ったらしいので、やむなく「方便」で「±0」と表現することにします)。

 大乗経典には、「不生不滅」とか「不増不減」とか「非有非無」といったフレーズがよく登場します。今見た『中論』第18章第7偈にも、「[諸法の]法性は、あたかも涅槃のように、不生にして不滅」だとありました。ただ、ここで注意しなければならないのは、『中論』が言う「不生不滅」と、後世の大乗経典や密教経典で言われる「不生不滅」は内容が異なっていることがあるということです。

 先ほど述べたように、『中論』の「不生不滅」「非有非無」はあくまでも、机や椅子やりんごやみかんといったいかなる「もの」にも固有の自性がなく、生じることもないし滅することもなく、あるのでもなくないのでもないということです。それに対して後世の仏典では、「机や椅子やりんごやみかんといった現象には、空という共通の自性が“ある”。それらはみんな、仏の法身というアルティメットまどかちゃんの円環の理に貫かれている。机や椅子といった現象世界の物事は生じたり滅したりしているように見えるが、その『基盤』となっている仏の法身は生じるとか滅するとか有とか無とかいう次元を越えている。仏の法身は『∞』である。ゆえに仏の法身は生じることも滅することもなく、あるのでもなくないのでもない」という文脈で「不生不滅」「非有非無」ということばが使われることがあるのです。字面は同じですが、意味内容はだいぶ違うわけです。

 何度か申し上げているように仏教思想史は換骨奪胎の連続です。ことばの字面はそのままにしておいて、中身を別なものに置き換えるということが繰り返されてきたのです。ですので、仏教の話をする際には、ことばがどういう文脈で使われているのかということに十分に注意を払う必要があります。字面や見た目は同じでも、時代や地域やセクトによって全然違う意味で使われていることばがいっぱいあるわけですから、そこによくよく注意しないと混乱が深まるばかりで何も分からんということになりかねません。

 さて、後世の中国仏教や日本仏教では、空性を「±0」だと捉える『中論』の思想ではなく、常楽我浄の不滅の法身を認める如来蔵思想(仏性思想)や、空性を「∞」だと捉える密教の思想が主流になりました。第27回で申し上げたように、仏性思想はインド仏教やチベット仏教では主流にはなりませんでしたが、中国や日本では、ほぼすべての仏教思想が仏性思想を前提にして築かれていると言っていいほどの巨大勢力になりました。また日本では、平安時代に密教が本格的に導入されて以降、後世に至るまで密教は非常に広い範囲に大きな影響を及ぼし続けていくことになります。

 ①の一元的世界観の話はいったんこれくらいにして、ここでは③の此岸と彼岸の距離の圧縮という問題についても触れておきたいと思います。『中論』の第25章には次のような偈がありました。

(第19偈)輪廻を涅槃から区別するものは何もない。涅槃を輪廻から区別するものも何もない。
(第20偈)涅槃の極みは輪廻の極みである。その二つの極みの間にはわずかな隙間も決して知られない。  
  【別訳】涅槃の極みと輪廻の極み、この二つの極みの間にはわずかな隙間も決して知られない。

桂紹隆・五島清隆『龍樹『根本中頌』を読む』

 これは中国や日本で「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」と呼ばれる思想です。『中論』にこのような偈がある以上、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の思想は初期大乗の時点ですでに存在していたということになります。

 すべてが空であり、迷いの世界にも「覚り」の世界にも迷いの世界から解脱する人にも実体はないという以上は、必然的に迷いと「覚り」は不二であるということになります。しかし、そうなると我々は既に覚っており、修行など必要ないということになってしまうのではないか。此岸と彼岸とを区別する根拠などないというのなら、世界は修行するまでもなく最初から“ありのまま”で「聖化」されているということになるのではないか。

 この問題をめぐっては、二つの立場が考えられます。

(A)「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」と言っても、それはあくまでも究極的な仏の境地から見た話である。長い長い修行を積んだ後ではじめて、「最初から迷いも『覚り』もなかったのだ」と「体得」できるのである。修行が不要だというわけではない。
(B)此岸と彼岸は不二であり、我々は既に覚っているが、それに気づいていないだけである。だから「ものの見方」を変えて、それに気づきさえすればよい。

 インド大乗はおおむね(A)の立場でした。先ほども触れたように、インドの大乗は、仏になるには無限大の時間がかかるという世界観をとっていました。密教の時代になるといまここの現世で仏の境地に到ることができるという思想も生まれますが、それは時代が下ってからのことです。その密教でも、修行が不要だとされたわけでは決してありません。「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」といっても、迷いの世界も「覚り」の世界も修行者もすべて空であるからこそ、人間の言葉で修行と呼ばれる現象が逆説的に可能になるという話であって、修行が不要だという話ではありませんでした。(A)の立場でいくと「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」といっても此岸と彼岸の間には距離感があるわけです。

 一方、(B)においては世界は最初から「聖化」されており、この世は安定的で調和的だということになります。最初から清らかなこの世の“ありのまま”の姿に気づきさえすればよい、ということになります。そうすると、此岸と彼岸との距離感が蒸発し、修行のプロセスが無化され、目の前の“ゲンジツ”は最初から“ありのまま”で「聖化」されているということになります。ゆえに、目の前の“ゲンジツ”が“即”「覚り」の世界とイコールだいう話になって、世界を空じて否定していく修行のプロセスを経ずに、目の前の世界がいきなり“ありのまま”で全肯定されることになります。そして、乱暴に単純化すると(B)は、後世の中国仏教や日本仏教で“しばしば”見られるようになる方向性です(もちろんこれはかなり乱暴な単純化であり、あくまでも“しばしば”見られるという話ですから、中国仏教や日本仏教がみんな(B)のような方向性だというわけでは決してないのですが)。

 先に結論を申し上げてしまうと、②の「現世肯定的傾向の昂進」や③の「此岸と彼岸の距離の圧縮」という傾向は、中国仏教や日本仏教においてさらに強まる傾向を見せることになります。そして、その傾向を強めていくうえで大きな役割を果たしたのが、如来蔵思想(仏性思想)や密教の思想なのです。こういった問題を扱うべく、次回から中国仏教篇に入っていくことにします……と言いたいところですが、その前にお話しておきたいことがあります。

 私がこの雑文を書き始めてから、かなりの時間が経過しております。その間、この雑文を書くためにへっぽこ勉強をしているうちに、己の勉強不足を痛感したり、「これまでの自分の仏教観を修正せざるをえないのではないか?」と感じることが多くなってきました。私の現在の仏教観は、この雑文を書き始めた当初のそれとは異なるものになっていると言わざるをえません。

 ゆえに、どういう立場でこんなものを書いて発信しているのかを明らかにしないまま話を進めるのは不料簡ではないか、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておく必要があるのではないかと思った次第です。

 そこで、次回から2回ほどかけて、この雑文を書き始めた当初と比べて、自分の考えがどのように変化したのかを明らかにしておきたいと思います。

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?