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Private Heaven

 目を覚ますと、一瞬ここがどこか判らなくなった。

 国際線の飛行機の中、ナナは周囲を見渡して思い出す。
 こうして飛行機に乗っているのにまだ迷いがある。もう空の上だから後悔したって遅いんだけど。ナナはシートを倒してもう少しだけ浅い眠りに入った。目的地まではまだ時間がかかる。

 それは突然だった。
 土日祝日等とは縁のない仕事をしているナナに五月のゴールデンウィークは頭になかった。いつものように健やかに眠り、朝になり、新聞を取りに郵便受けを見に行くと見た事のない封書がナナ宛に届いていた。一瞬、不審に思ったがどうせダイレクトメールだろう、と乱暴に開けた。

 けれど、そこから出て来たのは一枚の航空券。しかも行き先は海外。ナナは慌ててもういちど宛名を見直した。どう見ても自分の名前と住所だった。そして、この文字には見憶えがある。それはナナを動揺させるほど懐かしい文字だった。

 六月十八日グアム行き、方道航空券。予約を入れてあるというホテルの名前の走り書き。ナナは走って家の中に戻り、その航空券を胸に抱いた。心臓がうるさかった。
 どういうつもりなんだろう……。言葉とは裏腹にナナはスケジュールを確認した。六月はもちろん健やかに空いていた。

 機内食が運ばれてきて、その匂いでナナは目を覚ました。
 日本を出る時はあんなに迷っていたのに食欲だけはきちんとあるなんて。ナナはそんな自分に苦笑しながら食事を受け取った。

 グアムに着いたのは夜中だった。ホテル・ニュー・オークラのフロントに、ナナはおずおずと自分の名前を告げた。フロントの男性は、承っております、と柔らかく微笑んだ。
「お連れの方は出掛けておりますが、すぐお戻りになるそうです。リラックスなさっていて下さい、とのメッセージです」
 すぐに会えるものと思っていたので拍子抜けしたが、自分の気持ちを落ち着けるにはちょうどいい、と思い直し、フロントの男性に微笑んだ。

 案内された部屋は、涼しくて、きっと日中は海が見渡せるであろう、景観の良い部屋だろうと判る。置かれた荷物を壁に寄せて窓辺に駆け寄り、すぐに窓を開けた。潮風が頬をくすぐり、髪を靡かせた。湿気の少ない風が気持ちいい。久しぶりのバカンスのような気分になり心が浮き立ったが、はた、と我に返り、窓を閉めて部屋の中をあらためて見渡した。ベッドがふたつ。ナナはとりあえず荷物が置いていない方のベッドに座った。すると途端に借りて来た猫のようになってしまった。

 もうひとつのベッドの上には無造作に、シャツや本が置かれてあった。あのひとのだ、とすぐに判ってしまうのはナナをここに呼び出した主が好む物ばかりだったからだ。大きく深呼吸してできるだけ体の緊張を解いた。こんな夜にどこに出掛けているのだろう。ナナが到着する時間を知らないはずもないのに。心細くて勝手に主の物である本を手に取り、ぱらぱらと捲ったが活字は目に入らなかった。すぐにベッドを離れ、もう一度窓に向かうと波の音が聴こえ、不安な中でも解放感に包まれる。ふと目を凝らすとホテルに向かって来る人影が見えた。懐かしい猫背の歩き方。間違いなくナナに航空券を送った主である「彼」だ。

 しばらくすると、案の定ナナの部屋に訪問客が来た。
「どなた?」
「あなたにチケットを送った者です」
 その聞き慣れた声に、息を詰めてドアを開けた。ナナはそれでも顔を見ずに下を向いていた。
「……よく来てくれたね」
 頭上から降ってくる彼の声に、ようやく顔を上げた。少し痩せたようだ。けれど独特の空気を含んだ掠れた声は以前と少しも変わっていない。
「どうしてこんな事を?」
「会いたくて」
「私が来るって確信があったの?」
 彼は首を横に振った。
「じゃあ何故? 騙されたらどうするの?」
「それは俺の台詞だな」
 そう言って彼はドアに立ちはだかっているようにしているナナを一瞬、抱き寄せるように優しくどけて部屋に入った。確かに彼の言う通りだ。騙される確率はナナの方が高い。自分の言葉を反芻して少し恥ずかしくなった。航空券を送る方も大胆ではあるが、来る方も大胆なのはお互い様だった。

「元気だったか?」
 ベッドに腰かけて彼が聞いた。
「うん、あなたは?」
「この通り」
「真面目に聞かせて。どうして私を呼んだの? 券も方道じゃない」
「帰りは、君に決めてもらおうと思ったんだ」
「どういう事?」
「……質問はとりあえず置いといてくれないかな。必ず話すから」
 そう言われてしまっては言い返す言葉がない。
「いつまでこのホテルをとってあるの?」
「二十一日まで」
 じゃあ、それまでに聞けば大丈夫。ゆっくり考える事にしよう。納得するかどうかは別として、四日間。

 随分前、ふたりは恋人のようなものだった。
 打ち開けあった訳ではないが、風に押されるようにふわりとふたりは一緒にいた。彼は芸術を職業にしている人で、それが縁で出会った。
 彼はとても我儘で純粋だった。普通に話をしている時ですら傷ついてしまうことがあった。ナナはその度に自分の感性が鍛えられるような気がして身を引き締めていた。ある日、彼の作品が話題になり、忙しくなってふたりは会えなくなった。

 その後、突然彼は姿を消した。
 色んな人が勝手な噂を流したが、元々テレビなどに出ない人だったので翻弄されて疲れてしまったのではないか、とナナは考え、連絡が来るのを待った。そうしてひたすら待っていたが、痺れを切らして彼に電話をした。しかし、電話は解約されていた。それきりだった。

 気づくと、彼がシャワーを浴びる音が聴こえた。
 久し振りにひとつの部屋で眠るのだ。緊張する。しばらくすると彼がシャワーから出て来てナナにも促した。
「すごくお湯の温度が気持ちいい。落ち着いたら一杯付き合って。待ってるから」
「うん」
 そう返事をしながらも、ここに来させた理由も話さない人とは何もしないわよ、と心の中で彼に舌を出した。しかしシャワーの湯は彼の言うように本当にいい温度だった。うっとりしながらゆっくりシャワーを浴び終え、持って来たワンピース型のルームウェアに着替えてバスルームを出た。

 彼は白いシャツを羽織り、ベッドを背に、床に座って小さな音で音楽を聴いていた。心地良い素晴らしいボサノヴァだった。ナナも彼の横に腰を下ろした。
「いい曲ね」
「うん。大好きなんだ」
「誰?」
「カエターノ・ヴェローゾ」
「ふぅん」
 ナナと彼はしばらく音楽に身をまかせていた。

「黙って消えてごめん」

 急に彼が切り出した。驚いたナナは何か言おうとして口を開いたが、その瞬間、涙が溢れた。自分でも驚いて慌てて口元を抑えた。
「ナナ、ごめん」
 彼はナナの背中を優しくさすりながら謝った。
 言いたい事や聞きたい事は多分山ほどある。それなのに言葉が出ない。ナナはずっと恋人を作らなかった。作れなかったのだ。長い間、彼は見えない何かでナナの恋愛の自由を奪っていた。
「私も会いたかった、ずっと。ひどい。ひとりにするなんてひどい」
 ナナは彼に想いをぶつけた。
「ごめん、時間をかけ過ぎたよな。本当にごめん」
 ナナはそれ以上、彼を責めたりしなかった。
 それに正直に目の前で語ってくれようとしている人をもう本気で憎んだりもしていない。ヴェローゾの曲がふたりを優しく包んでいた。

 次の日の朝。

 ナナが最初に見たものは至近距離の彼の顔だった。案の定、目を丸くしてタオルケットで顔を隠した。
「悪趣味! 寝顔を覗き込むなんて!」
「よく寝てるなあ、と思ってさ」
 ナナは枕で彼を叩いた。所詮、羽枕で軽いのだが。彼は叩かれながら楽しそうに笑った。

 朝食後、ふたりは澄んだ空気を吸いに海に出た。
 ナナは気持ち良さそうに伸びをする。昨夜ここに着いたとは思えないほどナナはこの地になじんでいた。彼はそんなナナの姿を眩しそうに見つめた。そんな彼を振り返り、唐突にナナは質問した。
「ねえ、笑ってた?」
 突然の問いかけに一瞬何を言われたのか理解できず、彼は少し首を傾げた。
「私といた時、あなたいつもそうやって笑ってた。その笑顔大好きだわ。ずっとそうやって笑ってた?」
 彼は、はっとして真剣な表情になった。
「いや、笑えなくなってた」
「何年も?」
「何年もかけて、笑えなくなってた」
「話せる?」
「座ろうか」
 ふたりは柔らかな砂浜に座った。
「日本を離れて、君を呼ぼうと思った」
 ナナは大きな瞳を彼に向ける。
「君に電話した」
「来なかったわ」
「続きがある」
 ナナは一瞬、感情的になりそうだったが、すぐに聞く姿勢を整えた。

「君の電話番号、住所、家にいる時間帯……。すべてを隠されて、嘘をつかれた。君はもう別の男と結婚して既に転居して、そこにはいない、と。それでも一目会うくらい、と言ったが君は既に妊娠していてナーバスになっているからやめた方がいい、と」
 思わずナナは立ち上がった。顔が赤くなった。結婚? ううん。妊娠ですって?
「嘘だと判ったのはついこの間だ。偶然飲んだくれてたバーでその時仕事をした奴と偶然会った。何か聞き出せないかと思って思案した。奴は随分酔っ払っていて俺に気づいていないようだった。俺はバーのマスターとは気心が知れていたから、さりげなく奴の前で俺の名前を出してもらった。俺は顔を伏せてた」
 風に煽られた髪がナナの口の中に飛び込んで来たがすぐに頭を振って払いのけた。
「ぺらぺらと、よくあんなに出まかせが言えるもんだって感心したくらいだ。冗談にならなかったけどな。君との仲を引き裂いて、当時売り出そうとしていたタレントと俺が交際するように仕向けていたそうだ。けれど生憎、その子は違う男との間に子供ができたらしい。俺と何の接点も持たないうちに全ての計画が水の泡になったって訳だ。その後、俺のフォローなんて一切ない。君と引き裂かれたままで十年近く経ってた。走馬灯みたいに数年間が蘇ったよ。奴の手柄なんかどうでもいい話だが、俺とナナの人生を巻き込んだ事が許せなかった」
 そこまで話を聞いていたナナは突然、驚くほどの力で彼の手を取って言った。
「ボコボコにした!?」
 彼は目を瞬かせた。ナナの顔は真剣そのものだった。しかしその台詞を聞くと、思わず笑いがこみ上げて来てしまった。
「なんで笑うのよ! 大事なとこだわ!」
 突然、彼がナナを抱きしめたので小さく悲鳴を上げた。
「そうだ。君はそういう人だから会ったら一発で奴らの嘘なんて見抜けたはずなのに。俺に隙があったんだ。そんなバカげたことでこんなに時間がかかってしまった。やっと君を探そうとしたら……探さなくたって良かった。君の家は、あの頃のままそこにあって、君はそこに住んでいた」
 ナナの首筋に暖かな吐息が吹きかかる。
「それで、航空券……」
「うん」
「あなた自身の名前も何も書かずに」
「もしも、と思うと怖かった。君が来てくれて心の底から感謝してる。君の言いたかったことも何もかもすべて聴くよ。話してくれ」
 ナナは風に髪を乱されながら、少しの間考えた。
「ない」
「まさか」
「本当よ。疑り深いわね。今あなたに会えてる。それが嬉しい」
 そう言って彼に向かって微笑むと、ふたりはごく自然に唇を触れ合わせた。キスが温度を増しそうになった時、ぽつり、と雨粒が落ちてきた。
「スコールだ! ナナ、走るぞ!」
「え? え?」
 ナナは初めての経験に驚くしかなかったが、雨は突然強くなった。

 葉影に身を潜めて、ナナは雨を見た。
「これがスコールか!」
 ナナは腕を伸ばして雨を触った。
「すごい! 痛いくらい! ね、飲めるのかな? きれいな空気の場所って水もきれいよね」
「おいおい」
「シャンプーがあったら髪を洗える!」
 ついに堪え切れなくなった彼は大笑いした。
「なによ」
 彼は少しふくれっ面をするナナの濡れた髪をかき上げて、もう一度くちづけた。ナナも彼の体を抱きしめてくちづけに応えた。激しいスコールの中では何もかもがヴェールに包まれているようだった。

 間もなくスコールが止み、ふたりはホテルに戻り、シャワーを浴びて濡れた服を着替えた。ナナは不思議そうにからりと晴れた空を窓から眺めていた。
「そんなに不思議?」
「不思議よ。だってあんな豪雨だったのに、こんなにきれいに晴れるんだもの」
 彼も思わず空を見た。
 彼はしょっちゅうグアムに来ていた。それこそ骨休めをしたい時などに。けれど、こんなにゆったりと景色を楽しんだ事はないような気がする。いつも心の片隅に置き去りにした愛がちくちくと体を刺していたのだ。
「ナナは何月生まれだっけ?」
「五月」
「過ぎちゃったか。誕生石ってなに?」
「知らない」
「女の子って結構知ってる人多くない?」
「好きな石はただ好きなだけで、誕生石とか興味ないんだもの」
「じゃ、平気かな」
 彼はベッドサイドから可愛らしく梱包された箱を取り出した。ナナに開けてもらい、中を見るとネックレスが入っていた。ホワイトゴールドのトップにダイヤモンドが埋め込まれたデザインで表面は滑らかだった。
「きれい……」
「こういう時は指環かなって思ったけど、やっぱり年数を考えると怖かった。それと指のサイズも知らないし。だからネックレスにしたんだけど気に入ってくれるかな」
「え? もらっていいの?」
 この場に相応しくない返事だ。彼は少し笑ってナナの首筋に腕を回してネックレスを彼女につけた。ナナの細い首に美しく調和してよく似合う。

「ナナ、結婚しよう」
 彼の言葉にナナは驚きを隠せない。けれど、何故とか、今更とか、何年も離れていたのに、なんて、そんな質問は口にできない。
「……うん。結婚しよう」
 ナナはそう返事をした。
「良かった」
 彼は突如倒れこむようにナナを抱きしめた。緊張が解けたせいか彼の体は今までに感じた事がないほど重い。彼はナナを抱きしめて泣いていた。ナナの肩に温かい涙が幾筋も流れた。そんな彼の姿にただ髪を撫で、時折、口唇で顔の涙を拭った。ひとしきり抱き合った後、照れて微笑み合った。

 昼食は海の傍のレストランで、たっぷり時間をかけて楽しんだ。何も知らないうちは、ナナの中でどこか疑念があり、わざと人通りの多い場所を選んだが全てを知った今となっては静かな場所でも構わなかった。少しだけ酔いたくて大きなグラスに入った色鮮やかな酒も注文した。透明なグラスには鮮やかな花が挿してあり、テーブルに光が揺れて映り、ハニートーストにかける蜂蜜の小瓶の輝きと溶け合っていた。
「ナナ、夜に海を散歩しに行こうか」
「うん、行きたい」
 ナナは口唇に食事のソースをつけたまま顔一杯に笑った。彼はそのソースを指ですくって舐めた。何よりも美味だ。アルコールはふたりの頬をほんのり染め、昼間の時間を彩ってくれた。

 夜、

 ふたりで歩く浜辺の空には細い細い、猫の爪のような三日月が浮かび、星が沢山、瞬いていた。
「見て。月がふわふわになって海に浮かんでる」
「うん」
「ねえ、月の色が昼間の蜂蜜に似てる」
「そう言えば、あのガラスの瓶ずっと見てたな」
「きれいだったから。光があたっていて」
「ネックレスより夢中になってたぜ」
「やだ、一緒にしないでよ。きれいなものはきれいなんだから」
 そう言ってナナはネックレスの鎖を鎖骨ごと撫でる。いつもこうやって本気でムキになるナナを彼は心から愛しく思う。昼間、蜂蜜の小瓶は太陽の光を受けて美しく輝いていた。ナナは陽射しを浴びたガラス瓶の輝きにすら感動してしまうひとだ。ナナがそんな女性だった事を今更ながらに彼は思う。自分の話を聞いてくれた時も真剣だった。自分たちを陥れようとした相手がもしもそばにいたら、ナナの方が彼より早く奴をぶん殴っただろう。そんな事で彼女の手を汚さなくて本当に良かったと思う。
 ほんの少しの沈黙の後、どちらからともなく手を取り、ふたりの指が絡み合う。子どもがおもちゃで遊ぶように。波の音だけが耳に聞こえる。随分と時間が経過していた。

「眠くない?」
 ナナが問いかけた。
「ん? 全然。眠くなった?」
「ううん、ただもう遅い時間だから」
「俺は君に会えなくなってから、ずっと眠っていたような気がする。目覚めたって意味がないと思っていた。だから目覚めてる今が貴重なんだ。眠りたくない」
 ナナは駄々をこねるような彼の言葉をからかわずに微笑んで言った。
「ふたりで眠ろう、これからは。眠るって大事よ。嫌な事を忘れさせてくれる」
 猫のようにまっすぐな瞳でナナが言うので、この島に着いたばかりの時のナナのように、今度は彼の方が言葉にならず下を向く。そしてつい、彼はまた今までの事を謝りそうになってしまう。けれどそんな時決まってナナは彼の口唇を指でふさぎ、怒ったように首を横に振る。遅くなかった。

 彼は今在るすべてに感謝したい気持ちで一杯になり、泣き出しそうになってナナの胸許に顔を埋めた。心を柔らかくしよう。この月に誓う。君と一緒に幸せになる、と。この楽園で。


<  Fin >

初出 2004-05-03
改訂版 2004-09-05
追加改訂版 2020-08-09

あとがき

2004年に書いた「六月の楽園」という掌編を思い切り改変しました。2004年に書いた当初は割とはっきりとしたエピソードを入れておりましたが、読み直して余計だと感じ、ひたすら滑らかに猫の歩き方のようにスムースにしたくてエピソードらしいものはなるべく省きました。

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