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2011年映画『CUT』感想

2011年映画『CUT』(監督/アミール・ナデリ)観賞。
西島さんの役は映画を狂信的に愛する男、秀二。部屋にはおびただしい数の映画ポスターやチラシが貼ってある。トラメガで現在の、主にアート系映画界の危機を訴え、愛する作品の上映会を小規模ながら続けている。そんな中、突然ヤクザが訪ねて来て、秀二の兄の死と残した借金について知らされる。秀二は借金返済のため考え抜き「殴られ屋」になる。

……壮絶過ぎて私には半分も理解できなかったかもしれない。ただ消費されるだけの娯楽映画を観て楽しむだけの人間が観たらどう思うだろう。くだらないだろうか。腹が立つだろうか。それよりも単純に痛々しく暴力的な映画として捉えるだろうか。実は観ながらこれらのことを考えていたのは私自身だ。
もちろんそれだけじゃない。あれほどの情熱を維持し続けられる秀二が半ば羨ましい。秀二は強い。それは叶えるための現実としての夢があるから。最初は面白半分に秀二を殴っていた連中も倒れる様子のない彼に、段々血を滾らせたようで、一発殴る金額が跳ね上がって行く。そんな秀二と殴る連中を見守るのはこの映画のヒロインであり、紅一点、生まれも育ちもヤクザ組織の中にいる陽子(常盤貴子さん)だ。彼女はまた次の日に増えてしまう秀二の傷を手当てをする。
当時、アミール・ナデリ監督曰く「キリストのような体になれ」と西島さんに指示があったそう。共演した常盤貴子さんが「日に日に薄くなって行って臓器が透けて見えるんじゃないかと思えるほど」と評した西島さんの体の痩せ具合が驚異です。常盤さん演じる陽子は唯一、秀二が何も考えず体を預けられた、いわば聖母マリアのような存在だったろう。

最終的に人を救うのは狂気とも言える情熱と執着かも知れない。
傷だらけの自分の体にフィルムを映写するシーンは秀二にとって何よりの治療なのだと思う。また、殴られながらずっと古い映画作品の名前を呟き続けるシーンも復活の呪文のようなものだろう。映画への狂気の愛がある限り秀二は不死身となり、きっと映画を完成させるだろう。
秀二が体に映写していた映画は「少女ムシェット」(1967年)と言うロベール・ブレッソン監督の作品で個人的にファンなので所々に彼の著作本や映画のシーンが登場するのは嬉しい。また西島さんにも「演技が大げさではない」と言う所に通ずるものがある。観る人を選ぶ作品だとは思うが素晴らしい作品だった。

やっとこの作品の感想まで来ました!
この映画はあらすじを読み、ポスターを見て、一番観たくて一番観るのが怖かった映画でした。一度目に鑑賞した時は、ほぼ感想も出ないくらい壮絶で理解できなかったけれど、二度目に鑑賞すると驚くほどすべてが鮮やかで情熱に溢れ、気が触れたように映画を作りたい、と呟きながらひたすら部屋の中を歩いたりする秀二が魅力的だった。美とは様々なものだ。今ではとても大切に思える映画です。

映画ポスターの西島さん。痛々しく神々しい

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