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ALOL(アロール)とは、インドの師・OSHOから授けられた(1982年)、精神的な道…

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ALOL(アロール)とは、インドの師・OSHOから授けられた(1982年)、精神的な道における名前です。瞑想家であり、伝統禅に参ずる禅者でもあります。本名は角屋昌紀(かどやまさき)。PHILOS代表(造園デザイナー)。1958年生まれ。宮城県出身。芝浦工業大学(建築工学科)卒業。

記事一覧

私の瞑想は、大それたものではない
それは(心の)痛み・苦しみに対処するものだ
大きく息を吸うことができたら、それだけで1/3達成だ
吐く息と共に全リラックス、それでさらに1/3
残りの1/3は、リラックスのエネルギーを利用した精神の爆発
それが心に変容をもたらす
私の瞑想の3要素

ALOL
20時間前
1

その呼吸は、ハートの呼吸であった
それは愛の呼吸であるようだった
感謝の呼吸でもあった
町全体がそれで満たされた
そこにはいかなる意図も、努力も、操作もなかった
そしてその状態を維持しようとする意志もなかった
それは不意にやって来たのであり
去るのならば、ただ去るだけだろう


ALOL
20時間前
1

何年か前の、穏やかな春の日であった
原付バイクに乗ってゆっくりと町を走っている時に
どこか心に痛みがあったが、ただ受容して通り過ぎさせていた
その時、痛みに変容が起こった
と、呼吸が穏やかで、楽になった
何の努力もなしに、ただそれはそのように起こっていた
それは究極の呼吸であった

ALOL
21時間前
1

我々は、気持ちの良い体験を引き止め、不快な体験を追い払おうとする
そのことは十分に理解できる
しかしそれが心理学的に、また瞑想の上で、行き過ぎると、我々の精神は歪んで病んだものになってしまう
良いものにも、悪い(と思われる)ものにも、頓着しないで、さらりと行こう
ただ過行くままに

ALOL
21時間前
2

瞑想は、内側の気持ち良い空間を見い出すものだ
しかし、それに拘泥してはならない
良い体験をすると、それを留めておきたくなる、そしてまた体験したいという願望になる
それがやって来たなら、ただやって来させ、去る時には、ただ去らせるのがよい
不快な体験があったとしても、それは同じ事だ

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21時間前
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呼吸の重要性

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1日前
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國王神社

先日、坂東市の国王神社の写真をご紹介したが、その拡大写真である。 実はお詣りに行った時、ちょうど一人の老紳士が、まさに参拝しようとしているところであった。 曇りの…

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1日前
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河添恵子さんパンデミックの真相を語る(2024/5/13 厚労省会見室において)

完全版はこちらから https://twitter.com/PoppinCoco/status/1789895962816901494

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3日前
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執行草舟さん、日本の運命を語る

執行さんはこのように言うのだが、私は、日本の中にも、したたかで戦略性を持った恐ろしい(そして人間性のすぐれた)戦闘分子がいるのだと思う。危機の時代には、そのDN…

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3日前
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坂東の人々の平将門への愛と信頼は、今でも変わらず続いている。
そして、大和というか、中央に唯々諾々とは従わない反骨心が見られるのは、彼らに縄文の血が流れているためであろうか。
坂東の人々は、今でも、成田山にだけは参拝しないという。
成田からやって来た私は、やや気後れした(笑)

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3日前
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茨城県坂東市に、平将門を祀る国王神社を訪ねたことがあった。
平安時代、朝廷に反旗を翻し、新皇を名乗り東国の独立を唱えたが、遂に討たれる。この時、真言僧・寛朝が派遣され、乱の平定を祈祷した。これが成田山の始まりである。
国王神社をお詣りし、強く感じたのは、地元の人々の将門ラブだ

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3日前
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いにしえの日本文化・JOMON その象徴としての鹿島・香取神宮

ALOL
4日前
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縄文時代は、1万7千年ほど前から2千5百年前頃まで1万5千年間も続いた、世界でも最も平和で精神的な時代であったと考えられている。
その中心地は、鹿島・香取両神宮のある関東から東北にかけてであった。
関東・東北は、縄文すなわちオリジナル日本の聖なる本拠地であったということになる。

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4日前
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Zen Music of Great Compassion Dharani

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7日前
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Great Compassion Mantra by Imee Ooi

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7日前
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大悲円満無礙神呪

今回も、陀羅尼(だらに ; インドのお経をそのままの音で読むもの)の話である。 早朝の坐禅が終わると、大衆(だいしゅ)は、禅堂を出て、粛々と本堂へ向かう。 整然と座…

ALOL
7日前
1

私の瞑想は、大それたものではない
それは(心の)痛み・苦しみに対処するものだ
大きく息を吸うことができたら、それだけで1/3達成だ
吐く息と共に全リラックス、それでさらに1/3
残りの1/3は、リラックスのエネルギーを利用した精神の爆発
それが心に変容をもたらす
私の瞑想の3要素

その呼吸は、ハートの呼吸であった
それは愛の呼吸であるようだった
感謝の呼吸でもあった
町全体がそれで満たされた
そこにはいかなる意図も、努力も、操作もなかった
そしてその状態を維持しようとする意志もなかった
それは不意にやって来たのであり
去るのならば、ただ去るだけだろう


何年か前の、穏やかな春の日であった
原付バイクに乗ってゆっくりと町を走っている時に
どこか心に痛みがあったが、ただ受容して通り過ぎさせていた
その時、痛みに変容が起こった
と、呼吸が穏やかで、楽になった
何の努力もなしに、ただそれはそのように起こっていた
それは究極の呼吸であった

我々は、気持ちの良い体験を引き止め、不快な体験を追い払おうとする
そのことは十分に理解できる
しかしそれが心理学的に、また瞑想の上で、行き過ぎると、我々の精神は歪んで病んだものになってしまう
良いものにも、悪い(と思われる)ものにも、頓着しないで、さらりと行こう
ただ過行くままに

瞑想は、内側の気持ち良い空間を見い出すものだ
しかし、それに拘泥してはならない
良い体験をすると、それを留めておきたくなる、そしてまた体験したいという願望になる
それがやって来たなら、ただやって来させ、去る時には、ただ去らせるのがよい
不快な体験があったとしても、それは同じ事だ

國王神社

先日、坂東市の国王神社の写真をご紹介したが、その拡大写真である。
実はお詣りに行った時、ちょうど一人の老紳士が、まさに参拝しようとしているところであった。
曇りの日だっだが、その紳士が拝殿の前に立った一瞬、雲が割れてその人だけを照らし出した。神々しい光景であった。
これは只者ではない。
我々が参拝を終えると(その時には、もう陽が陰っていた)、その紳士はほがらかに話しかけて来た。
「お詣りですか」

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執行草舟さん、日本の運命を語る

執行さんはこのように言うのだが、私は、日本の中にも、したたかで戦略性を持った恐ろしい(そして人間性のすぐれた)戦闘分子がいるのだと思う。危機の時代には、そのDNAが目覚めるのに違いない。
しかし日本人は、戦争で闘うのではない、人間性(慈悲)によって闘いそのものを超克してゆくのである。日本からメシアが現れるとは、そのようなことだろう。

坂東の人々の平将門への愛と信頼は、今でも変わらず続いている。
そして、大和というか、中央に唯々諾々とは従わない反骨心が見られるのは、彼らに縄文の血が流れているためであろうか。
坂東の人々は、今でも、成田山にだけは参拝しないという。
成田からやって来た私は、やや気後れした(笑)

茨城県坂東市に、平将門を祀る国王神社を訪ねたことがあった。
平安時代、朝廷に反旗を翻し、新皇を名乗り東国の独立を唱えたが、遂に討たれる。この時、真言僧・寛朝が派遣され、乱の平定を祈祷した。これが成田山の始まりである。
国王神社をお詣りし、強く感じたのは、地元の人々の将門ラブだ

縄文時代は、1万7千年ほど前から2千5百年前頃まで1万5千年間も続いた、世界でも最も平和で精神的な時代であったと考えられている。
その中心地は、鹿島・香取両神宮のある関東から東北にかけてであった。
関東・東北は、縄文すなわちオリジナル日本の聖なる本拠地であったということになる。

大悲円満無礙神呪

今回も、陀羅尼(だらに ; インドのお経をそのままの音で読むもの)の話である。
早朝の坐禅が終わると、大衆(だいしゅ)は、禅堂を出て、粛々と本堂へ向かう。
整然と座に就くと、まだ薄明かりの中で、読経が一時間ほど続くのである。
黎明の龍澤寺は、神聖な沈黙に包まれているようであった。白隠禅師や祖師方のバイブレーションが現に残存しているのであろう。
読経の中頃あたり(だったと記憶するが)で、維那(いのう

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