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マハー パリ ニルヴァーナ

「涅槃経」というお経がある。正式には「大般涅槃経」(だいはつ ねはんぎょう)、パーリ語で「マハー パリ ニッバーナ スッタンタ」というものである。(サンスクリット語では、マハー パリ ニルヴァーナ スートラとなる)
ニッバーナ(ニルヴァーナ)すなわち「涅槃」の原義は、「吹き消すこと」ということだが、ここでは煩悩の火が吹き消される、という意味になる。心があらゆる囚われから脱して、無限空間へと解き放たれ、そこに静かな歓びが生じたとしたなら、あなたは涅槃の中にいるのだ。寂滅為楽という言葉がこれを表すのにぴったりであるように思われる。涅槃は、消極的なものではない、非常に肯定的なワードであるのだ。

「パリ」というのは、「廻って」という意味の接頭辞であり、「パリ ニルヴァーナ」で、「円寂」と訳される。「マハー」(偉大な)という言葉が冠されているので、「大円寂」ということになる。
この「大般涅槃経」は、岩波文庫にある「ブッダ最後の旅」(中村元訳)というのがそれである。ブッダが入滅する最期の時を叙述したものであり、肉体を離れることによって、ブッダは何も残すことのない完全な悟りに入って行ったということを表しているのだろう。
岩波版は、初期仏教のもっとも原典に近いテキストだが、後代に成立した大乗仏教の涅槃経もある。大乗のものでは曇無讖(どんむしん; 中インド出身の僧)が訳したものがよく用いられているが、始めこれは10巻ほどのものであったという。ところが訳し終わってみると、ああら不思議、40巻ほどのものに膨れ上がっていた。はじめの10巻は、ほぼ初期の涅槃経に等しいのだが、残りの30巻は、いろいろに流伝していたものを取り込んで付け加えられていったものであるらしい。
しかしこれを後世の偽物と考えるべきでは必ずしもないのではなかろうか。と言うのも、仏教の重要な思想がここから現れ出てきているからである。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」(あらゆる生き物はことごとく仏性を有している)や、「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」(自分が救われるよりも先に他を救ってあげる)といった思想もこの涅槃経から生まれ出ている。これは後代の仏教徒たちが、瞑想をより深化させ、初期仏教の地点から創造的に歩を進めた結果なのではないだろうか。しかしそこから生れ出た言葉は、自分たちが考えたものだとは主張されなかった。あたかもブッダその人が自分たちを通して語ったものだと受け止められた。それですべて如是我聞として、ブッダが語ったものだとされたのではないだろうか。無我の立場からは、そのような匿名性は当然のことであったかもしれない。現代だったら、著作権やら盗作疑惑やらで大変なことになるに違いない。

ところで、インドの師匠(OSHO)の元に、古くからいたことがある人々は、「マハー パリ ニルヴァーナ」と言う言葉に非常に親しみを覚えるに違いない。師匠のお父さんという人は、元々少しも宗教的な人ではなかったが、後に、悟りを開いた息子の弟子となって帰依し、その最期には完全な悟りの中に往生して亡くなった人である。そのお父さんの亡くなった日を記念して、「マハー パリ ニルヴァーナ デイ」というのだが、われわれは「マハパリ」と称して祝ったものだ。ちなみに私がインドに滞在している時に、ブッダホールで椅子に腰かけて瞑想している年老いた女性を時々目にした。この人は、師匠のお母さんであった。この人も悟っていた女性だが、自分が悟っていることに全く気が付いていない人だと言われていた。非常に謙虚な女性で、師匠のことを、「なぜあれほどの魂が私なんかを通して生まれたのか理解できない」と語っていたそうだ。私に言わせれば、それだから、である。

写真は高田・専修寺(栃木県真岡市)の涅槃像


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