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【プリズンライターズ】刑務所の中から「宗教と争い+科学」

お元気ですか。毎年花粉症に悩まされる時季で、それもやっとこさ終わるなぁとホッとしていましたら、大陸からとんでもない黄砂が飛来して窓外の新緑もモヤっとしたものとなっています。そのモヤっとで鼻がまたグズりはじめました。
 たまりませんが、今年の1月末に〝ほんにかえる〟から手許に届きましたガチャ本の1冊「何を信じて生きるのか」を読み終えて、その内容から旧教ローマカトリック系の本なのかなぁと思いつつ、大分前にも宗教関連本を読み、自分なりに観つめさせられた答とリンクさせた拙文を、今回、鼻をすすりながら投稿させていただけたらと思っています。

 まず、物質原初の素人発想からどうしても書かせていただきますが、昔、教皇ビウス12世が、天文宇宙学関連と創世記を絡める発言をして、それがバチカンにとってどちらに転んでも良い結果にならないと、側近とまわりの面々が教皇の天文学への発言をやめさせたらしいです。
 ですが、その発言(光あれ…)の意味するところの主観性と客観性を観つめますと、〝光〟が何なのか?また、〝光あれ…〟の表現が当時の宗教観と天文学との相違(神秘性と天文科学)いわゆる唯心論と唯物論(抽象と具体)の結合に天文学者や宗教関連の面々は違和感と先の杞憂を感じたのかもしれません。
 
 しかし、〝光あれ…〟の抽象的な拙い表現は人間本意的なものでしかなく、〝光あれ…〟の表現が物質法則によるものと考えたらどうなるでしょう?その辺になると数式による表現方法を知らず、拙い文章力ではうまく書けませんが、それでもそれらを、どの角度から観つめても、最終的に人々にとって〝神〟の存在とは何なのであろう?と必ず、そこに行きつく僕です。
 〝光〟スペクトルですが、物質すべての存在定義証明は、原初の振動(スピン)ゆらぎと光(欠損物質?)等々なのかもしれません。それらが、法則的なものなのか?それとも意思を有しているものなのか?と単純に2つに1つだと思えますが、もしかすると両方もありなのかもしれません。物質による〝意思〟。
 
 人の脳を司る情報伝達の1つ〝ニューロン〟と〝シナプス〟等も間違いなく物質です。(後述)それ以外だと、人間原理と存在に矛盾が生じてしまうと思えます。その辺の詳細を書きますと、内容が別の方向に進みますので、ここから、人々が「神」の存在を意識しはじめたのは果たして、いつの時代からなのでしょう?また、人々の生活環境にいつ頃から〝宗教〟が必要となり、なぜ発展に至ったのでしょう?その辺から順追って書きたいと思います。
 それには、人類の始祖以前にまで遡らなければいけないと思っています。原始人時代の生活圏では〝神〟の存在を意識することなく生命維持と種族繫栄の本能行動でしかなかったと思いますが、その時代、原人によるある本能行動がなければ現代の人種は今以上に多様だったと確信しています。
 
 
 以前、人類の原人時代の本を何冊か読みましたが、原人による〝弱肉強食〟本能行動の1つ〝共喰い〟が確実に生じていたものと思えます。ですが、それを活字にした本には1冊も出会っていません。ただ、原人が生活していた横穴から〝別の原人の意図的に傷つけられた骨が他の動物の骨と一緒に発掘された〟とあった1冊を読みました。
 当時の狩猟スキルがどれほどのレベルだったのか知りませんが、獲物の少ない時期や氷河期となれば生命維持と種族繁栄の為、他の弱い原人を獲物と本能的に認識する環境生態を生じたと思えます。そのため、弱い原人は僻地へと避難行動のみで「神」にすがる行動思考はできません。
 現代日本においても、東北地方で飢饉による家族の生命維持の為に、お互いの子供を交換し合い食べた家族も多くあったといいます。当時の人々は自分達の悪行を悔い、詫び、その苦痛を和らげる為に思いを込めて生まれたのが、東北で有名な「コケシ」です。読んで字の如く〝子消し〟です。あの愛くるしいコケシに悲しい過去とおぞましい由来がある事など思いもしませんでした。それでも、その悪行を「神」にすがる行動に至っていない事は歴史が語っています。
 
 ある本に数百万年前の墓が発見され、発掘すると当時の原人は死者をちゃんと埋葬し、その中に花も供えられていた、とのことです。それは本能行動であった原人から本能的感情、感覚的な欲求等に対して合理的、論理的な判断能力を有する人類へと移行時代で群集心理的に広がって行っていたのかもしれません。
 
 なぜなら、家族や仲間の死と亡骸を尊び、お花を供えて埋葬する行動は間違いなく人への一歩だと単純に思うのです。それでも、人類の生活圏には、まだ〝神〟は存在させられていないと思いますが、自我が芽生えている以上、天地自然現象と災害への畏怖は、今まで以上に自覚することとなっていたでしょう。また、本能的に認識していた自然現象に様々な感情が生じたとも思えます。そのひとつに〝稲妻〟がとてもわかり易いのではと思いますが、稲妻が走る光と轟音に得体のしれないバケモノを見たり思ったり、その光に映し出された雲のシルエットに様々な魔物を見たりしたのでは?と思ったりします。
 
 雲は視る人の心境で、どの様にでもシルエットになりえると思います。その時代に至っては、人類の生活上には、生活様式が構築され、様々な生活用品や道具を使用されていた事実が証明されていますが、様々な認識力、知識力を得た感情は当然ながら〝死〟への恐怖を知り、天地自然現象から生じる災いと飢饉、疾病、争いなどに人々が苦しまされ、その国の1つが魔物によるものという畏怖から生じる拠り所にシャーマンという存在が生まれた1つと思えます。
 
 その後も群集心理的に各地でもシャーマニズムが構築され人々の心に浸透してゆくには環境条件があまりにも揃い過ぎていたのでしょうか?そして、人々を統治する力に成長させられ自然の流れで民族観と条件下で統治者が生まれたのでは?と思ったりしています。
 各地で生じたそれらは、様々な紛争となる因を人々にもたらす事実は歴史が如実に物語っていますが、そのガバナーによる都合、ガバナンスを利用した欲望で人々の生活にとんでもない苦痛と辛さ、悲しみという状況を強制し、更に飢饉、疾病、争いなどの因で、凄まじい惨状と化したものになり、その中から拠り所となる象徴が構築されることに至ったのでは?と思います。
 
 人は物質的にメンタル的に満たされた平和を実感している時は「神」を求めることは少ないし、必要としない場合が多く、幸福を素直に享受していると思います。ですが、それら喜びとなる因から距離を置く生活から、苦しみのない生活となれる教えがガバナンス的にうまく利用された1つなのでしょうか?
 
 何にしましても、シャーマニズムからスタートした宗教観は、人々の精神昇華と生活向上、価値観の進化と発展等に伴い、ガバナンス的にガバナーの利用価値にもなり、その欲望のまま人々を苦しめ、底辺で生活している凄まじい惨状の中から救世主が生まれる。その繰り返しになっているのが、過去の人類史なのかもしれませんが、その辺は端折っています。
 旧聖書と新聖書等での対立、宗教観による紛争、民族観での争い、大きいところだと国対国の戦争に至っては、その根底にある低次思考は果たして何なのでしょう?獣の子は仲間とのじゃれ合いなどから自分の牙や爪の凄さを知るらしいです。地上の動物で凄まじい獣である人間はそのような体験をすることなく大人になっているらしいです。
 
 
 ここまで書いて、文章足らずの箇所もありますが、人の生活における〝宗教〟とは単純に〝生き方〟の1つなのでしょうか?それを難しくややこしくする輩が存在しているのでしょうか?ですが、日本の国民性でいうところの〝神〟と外国の人々が〝神〟に対する思いが、とんでもない相違がある様に思えます。その為、外国各地で生じた紛争等は、ほとんどが〝宗教〟が因となり、それ故、都合よく利用されたりしてきた事実が歴史的にも、現代に至っても存在しています。それは、ヨーロッパの歴史が物語っていますが、その時代〝神々〟は人々の心に存在していたのであろうか?強制的な〝生き方〟の1つとさせられていたのであろうか?その辺も核心は書けませんが、いつの時代背景でも社会的に生じているマクロ的な出来事など何かしらの意図がある場合があって、自分で気づき理解することで観えるものがあります。
 
 過去の書籍でいうと、わかり易いのが「ガリバー紀行」で、著者が世に伝えたい事は、当時の世界情勢から〝大国vs小国〟に思えるし、童話だと「ジャックと豆の木」がわかり易いと思いますが、ジャックは金の玉子を生む鶏を神から盗み、怒った神はそれを取り返そうと豆の木から地上に降りようとします。ですが、ジャックはその豆の木を切ってしまいます。天に届いてある尊い木をです。それも神がまだ豆の木を折りている途中にです。神はその後どうなったでしょう。それもこれも、ジャックが金の玉子を生む鶏を独り占めするためです。
 
 ジャックが誰なのか?どこの国なのでしょう?その時代背景と情勢に伴った警告メッセージは有名な絵画でも多くマーキングされています。近年で最も大きくわかり易い出来事が、米国の同時テロの911です。
 世界の地上は陸上と海の2つに分かれていますが、空は1つです。その世界の空を〝秩序の屋根〟として、その屋根を支えていたのが世界貿易センターのツインタワーでした。そのツインタワーはある宗教観において〝ジャキン〟と〝ボアズ〟という柱でしたが、それをどのような宗教観を伴っている人が崩壊させたでしょう。そして、世界の秩序の屋根を支えてた柱というビルがどこの国に建ててあったのかが重要で、〝秩序〟という名のガバナンスに不満を持ち敵対していた人々が存在していて、秩序の柱が崩壊した後、現在まで世界でどのような事が生じさせられたでしょう。
 
 911の前後「パールハーバー」という映画が封切られていると思います。それが、なぜあのタイミングだったのでしょう?911も根底には宗教観を利用した様々な欲望が轟くものだったと誰もが知るところになっています。
 
 とここまで、素人的発想、空想等で書いてきましたが、その想像力を生かして様々な事柄を観つめ、答を見つけ、それらをCGスキルでショートムービーで表現できるようになれたらいいなぁと思ったりもします(ムリがあるかなぁ)。
 
 ここから現代の人々は、何歳頃から〝神〟を認識していたのでしょうか?この世に生を受けてから既に〝神〟を認識していたのでしょうか?泣きながら洗礼を受けている赤ちゃんをTVで何度か視ましたが…。
 極端なことなんですが、生まれた赤ちゃんを社会から隔離された生活環境で何不自由なく生活してもらったとして、赤ちゃんは本能行動によりボディランゲージで生命維持の意思表示をして来ます。そして、赤ちゃんの脳の中を1冊の真っ白なノートとして、1ページの前半には本能的な事が書き込まれています。後半のページから真っ白で、そこから本能的な行動で成長体験値が書き込まれて行きます。
 
 その生活環境には〝神〟の存在となるモノは一切ありません。また何不自由のない生活をしていますので、果たして〝神〟にすがる心境になるでしょうか?その前に〝神〟の存在を意識するでしょうか?人が〝神〟の存在を考えるようになる背景には、幼児期に家族や友達から教えられたり、教会、神社、寺院等に連れて行かれた思い出であったりする記憶ではないでしょうか?そして、成長期や大人になってつらい事、悲しい事の悲惨な体験をするに至って〝神〟にもすがりたい心境になるのでしょうか?そして、その〝神〟の存在を意識しはじめましたが、それでも過去、現在において世界各地に存在してある〝神〟は、すべての人々の手によって木を削り、石を刻み、金属を打ったり、流して型取ったり、描いたりの人工造形美術的な創造物です。
 
 確かに歴史価値のある〝神々〟を世界各地に存在してありますが、それでも人々の手によるものです。そこに〝神〟はホントに存在しておられるのでしょうか?どうでしょう?このように書くと僕が〝神〟の存在をないがしろにしているかのように誤解されそうですが、決してそうではありません。僕は〝神〟の存在を問われましたら、なんら躊躇することなく〝はい〟と即答できます。
 
 ただ、人々に対する〝神〟の存在が何なのか?という違いだけなのです。人々の生活上においての〝神〟はやはり人(ブッダ、キリスト)であったでしょうし、その上は〝地球〟であり、その上は〝太陽〟であり、〝天の川銀河〟だと思っています。それがシンプルで理に適っていると確信しています。
 
 人々の生活上においては、様々な出来事が生じさせられていますが、時にメッセージ性の高いマクロ的な出来事がある事を前述させていただき、〝偶然は必然的な意図〟を伴ってガバナンス的な都合の状況になる事もあるようです。〝大は小を兼ねる〟的な大と小、そして対象になってしまう人を誰がどのように選別し決められているのかは、持って生まれた資質と運命的なものになるのでしょうけど、核心は書けません。
 
 これこそ〝神々のみぞ知る〟ですが、その〝神々〟とは何だ?人口造形美術神仏を崇拝する人々の精神的なものなのでしょうか?そこで考えるのが、「唯心論、唯物論」になりますが、先に記述しました。〝偶然は必然的な意図〟の場合もある。偶然にもさまざまな場面と状況があると思いますが、身近なことで自分の生活行動の動作範囲で、「ある出来事」と自分の行動と動作タイミングが、ピタリと合うことが幾度となく続き、その事に???となり、自分で意識的に動作タイミングをズラしたりしても、その偶然も同様にズレてついてくるという非現実が続けば、中卒のおいらでも〝神〟の意図か?それとも、文明の利器科学による必然的な低次元での意図が生じさせられている?のどちらかだと気づきます。
 
 後者だとセキュリティクリアランスを有するレベルが、著しく低下している時日を如実を語る事実も存在しています。その辺の事も核心的なことは書けません。なぜなら、この拙文を読む方が必ず消化不良になるでしょうから、自分の経験値を神々の意思と考えた人々は、〝聖家族の相続人〟の生き方を歩むことになるのでしょう。その辺も端折って文章足らずになりますが、その偶然を必然的で、第3者的な意図で、科学の力によるものと、低次カラクリに気づいた人は、科学的な〝物質の観測者〟という生き方を歩むか?それとも、あまりにも低次的な偶然の数々にアホ臭さと嫌気がさし、社会人として生活してゆく生き方を心から望むか、それぞれだと思います。それら2つの生き方を踏まえまして、先述の〝唯心論、唯物論〟を皆さんはどのように考えたでしょうか?

唯心論=世界の本体はすべて精神であり物質的な物の存在を心の作用に基づくものである。
唯物論=世界の本体はすべて物質であり精神的な物もすべて物質に還元できる。

 上記はあくまでも人間本意的な都合の何ものでもない訳ですが、有名どころの相対性理論等や様々な物理法則と数式法則等も人間の都合的な記号でしかなく事実、宇宙で生じている自然現象は、いたってシンプルで本来意味など存在している訳もなく、そこに人間の様々な都合から意味を難しく生じさせる事で、観測者になりたたせているのが人類です。
 
 同じ動物であるサルが〝サルはどこから来てどこに行くのか…〟とか、〝時間の遅れの法則は…〟などと考える訳が今のところないです。そもそも人類がいうところの〝夜〟という時間は、惑星次元でいうところの単に〝影〟でしかありません。
 
 その人間は果たして〝物質〟なのでしょうか?それとも〝精神〟なのでしょうか?それを深く観つめていくと最終的に行き着くところは、人の〝意思〟は物質か?に至ると思います。〝あなたの心はどこにありますか?〟と問われて頭を指し示す人はあまりいないと思います。ですが、脳を司る意思伝達、情報伝達等は〝シナプス〟と〝ニューロン〟です。そしてそれらは確実に物質です。自分の手のひらをミクロ的に観つめて、原子レベルだと、1個の原子核のまわりを電子がまわっています。何千億個以上の原子集合体が手のひらで、確実に揺らいでいます。身体全体も揺らいでいます。また目の前に存在してあるすべての物質も原子レベルで観ると揺らいでいますが、人の視力では見えないだけです。
 
 原子1個は原始核のまわりを電子がまわって1個の原子ですが、その原子核と電子との間隔は例えば、原子1個が東京ドームの大きさだとして、その東京ドームの中心に置いた1個のリンゴが原子核の大きさになります。ですので、原子核と電子の間隔はとんでもなく離れていて、人間の体はミクロ的に観るとスカスカで、宇宙から届くニュートリノ等が簡単にスリ抜けて行きます。
 
 更に原子核は素粒子という物質で構成され、すべての物質は素粒子による〝4つの力〟からスタートする、いたってシンプルなものです。(それ以前となれば個人的に〝虚数物質〟と考えています)その実数物質環境において人の脳の〝シナプス〟と〝ニューロン〟が実数物質である以上、第3者による対象者への思考アクセスは、科学力により可能性を含んでいると思えるのです。
 
 脳から発信される筋肉のパルス伝達へのアクセスは既に可能となっています。僕のまわりの空間には様々な電磁波や電波が飛び交っていますが、ハードがあれば受信可能です。人の脳を脳波を体内だけでなく体外にも発信していて、その質量出力が持って生まれた時から強い人と、第3者的都合の意図により、一時的に強くされてしまう対象者も存在していて、前述の〝偶然〟は必然的な意図によるものという出来事を体験させられ、前記の〝聖家族の相続人〟か、〝科学の観測者〟かに至る場合もあるのかもしれません。
 
 2年程前に〝ブレイン・テック〟という活字にやっとこさ出会うことになりましたが、単純に言って一般企業にまで、そのスキルを知らしめ許可されている事実は、その上では既に極められていると思えます。僕のような者が、その核心を書けるはずもないので内容を意図的にズレさせてはいますが、ズバッと核心をうまく表現したとしましても、間違いなく意味不明の消化不良になると思います。なぜなら、今まで書いてきた事は第3者的に対象者の頭脳の思考をモニターしたり、思考にアクセスして言動を左右する事が可能です!と書いているのです。どうでしょう?〝あ、コイツはなぁにを言ってんだ〟となるでしょう。まぁ人それぞれなのでしょうけど。
 
 小学5~6年生のころ、米国のTV(沖縄は米軍基地があるので視聴可能です)で〝レジスタンス〟という地球侵略を目論む宇宙人と戦う人々のドラマを視た記憶があります。その宇宙人が地球外生命体なのか、それとも政治的揶揄による政敵を表現していたのかは知る由もなくて、作者の意図はわかりませんが、その宇宙人らは人間の生活環境の広範にまで侵略していて、電波(パラボラ)によってTV広告、看板広告などで、街の至るところにスローガンとメッセージを発信しているけど、人々は視覚、聴覚などを錯覚状態にさせられているので気づけません。バッタの様な宇宙人を人間として見せられているので、宇宙人の子どもをどんどん生んでいるストーリーでしたよ。おそろしいことよ。
 
 〝信じるか、信じないかはあなた次第です〟とどこかで聞いたフレーズですが、拙文が、ここまで来ましたらもう、この手の話は文章表現がどんなにうまく何百万語で書き合わせて核心をついても最終的に身近で生じている出来事からメッセージに気づいて、宇宙人が誰で何を意図しているのかと観つめない限り、事実は観えてこないと思えます(決して、上から目線ではないです)。
 
 今も昔も人々は争いや戦争など一切望んでいる訳がなく、日々平和に生きて生活していたいだけで、そして心からそれを望んでいると思いますが、それでも低次政治思考に絡むと、宗教観、民族観などを利用した紛争、戦争等が正当化され、現在に至ってまで当然の如くまかり通って、ガバナーの都合によるガバナンス的、求心力を利用したい、ただそれだけで、多数の人々の人生と生活を簡単に犠牲にしています。
 
 そして、過去における各国で伝道師が行っていた活動の本を何冊か読みましたが、その活動には、明らかな政治的スパイと思える行動が多数ありました。伝道師も知らずに政治利用されていたのが大半なのでしょうが、その構図は宗教観だけに限らず、〝統治〟という政治力が良い方向に歩み、人々に安全、安心等の生活環境の場を生じさせているならいいのですが、過去、現在に至っても低次政治による様々な犠牲を伴った生活と生き方を知らずに強制させられ、本人は強制させられているとは思わないマインドコントロールされています。僕が東北地方で生活していた頃、地元で名のある仏道の方に〝宗教上の対立で戦う事に発展したら武器を手に戦いますか?〟とお訊ねしましたら、〝正義にもよる〟とよくわからないものでした。
 
 〝何を信じて生きるのか〟の著者にも同様にお訊ねしたいけど、そのチャンスは多分ないでしょう。ちなみにですけど、〝スマホ〟にも人々が知らない秘めたスキルがあると確信しています。などと勝手な事を書いてきましたが、この辺で失礼させていただきます。皆さんのご自愛を心からお祈りしています。

R5.5.6、土  曇天

A273さん過去の投稿


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