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何があるのか、節目という境目に。「終わり」と「始まり」の話。

節目というものが大きい時ほど私は「あぁ終わっていく」感を味わうことになる。何が起きているのか起きようとしているのかということを理解はしているが、感情の方はただただ「終わり」を堪能しているかのように。
それはどこか寂しくもあり自分の何かがまるで死んでいくかのような気になるのだが、それでも私はそれだけを感じそこだけに居るわけでも無くて。落胆するかのようにその終わりを感じている自分のことを面白いものだなぁと観察したり、いくつかの立ち位置にいたりする。簡単に言うと、これはリフレッシュのタイミング、境目に向っている時なのだ。「終わり」の後には「始まり」がある。

その境目には小さなものから大きなものまでいろいろある。もうすぐ死ぬよと言われた時のような病によっての何度かのそういう時もあったし、場所を変える時や生き方を大きく変える時、人の縁をがらっと変えるべく全てを捨てたというような時などいろいろ。幼い時には自分からでは無く、与えられた環境自体が日々危うかったり揺らいだりしていた。根ざすことの無い旅人の両親ゆえの話。

今の時期の節目というと、12月15日の射手座23度台での日食があった。これは新月の大きい版と言われていて、その影響力は次の日食までの約半年間あると言われている。
次に16日に金星が蠍座から射手座へ移動し、17日には土星が山羊座から水瓶座へ移動する。さらにまだ続く。19日に木星が山羊座から水瓶座へ移動して21日には水星が射手座から山羊座へ。そして冬至が21日19時過ぎに来て太陽が射手座から山羊座へと移動する。22日には水瓶座1度で土星と木星が重なるグレートコンジャンクションと呼ばれるイベントが起きる。
小さな節目、少し大きな節目と今回はいろいろあって、それらを自分はどういう位置でどのように体験しようとしているのかということを考える。自分の場所を変えると見え方も変わるし体験も変わり、そこに発生する意味も違う。そのいくつかを見て廻るということをする。

占星術で見ると、私は生まれた時に冥王星が近くにあったので、月と冥王星が0度ということになるので、生まれた時から地上は危険であり安心は無い。落ち着くことなど無いという状態でこそ落ち着くという言い方も出来る。地上設定の話なので、大変なとかひどいとかっていう生まれがあるという意味では全くないのだけれど、ここは誤解しやすい、されやすいところでもある。例えば出生図の読み手が過去にあった具体的事例を話すほどに面白がってくれなくなるということに、どうしてだろう?と感じていた私が学び始めた頃にはいた。後々になるとそれも解決していった。読み手の人生の展開力が反映されてしまうのだ。

どんな出生図も地上設定だよね、と思う。それを描いた自分という存在に今ここに居る自分がどう繋いでいるか、状態によって話はとんでもなく違ってしまうけれど、それでも自分の生まれというものは、どこかの誰かに与えられたものなんかじゃ無いってこと。これまでのその環境を選んで私たちは今回という場所と時間にやって来た。もちろん選ぶということの中身も今ここにいる自分にとっての選ぶというものとは随分違っているであろうことを忘れてはいけない。

占星術と関係無く生活しているという人も、何かを変えてみたいと思っているなら意識的に立ち止まるということを採用してみよう。わざと意識的に自らに「終わり」を作るのだ。
この冬、いつもの日常よりも大きないくつかの節目の中に今はあって、例えば外の世界ばかりに気を向けすぎている自分がいるのなら、わざわざブレーキをかけてみよう。
音から入ってくる情報も視覚から入ってくる情報も、触ることで得ている情報も「いつもの」という当たり前の日常の流れから離れてみようとするのもいいかなと思う。
例えばほんの少しのいつもには無い静けさを日常に招こう。
ほんの少しでもいい。たったひとりの時間の中で、携帯やラジオを切って、自分の呼吸にただただ意識を向けていく。時には目を瞑って、静かな呼吸に意識を向けながら、気が遠くなるほど暇だなぁって思った後に、それは訪れるかもしれない。真っ白な雪にかき消されていくように、真っ暗な眠りの底へと落ちていくように、それはやって来るかもかもしれない。眠りに落ちることだってあるだろう。時間が許すなら眠ってしまおう。
終わりと始まりを意識してみよう。それは境目の体験だ。

私たちはとても多くの終わりと始まりの中を生きている。意識しないままに一日を終え眠り、次の日に起きるという当たり前の繰り返しがあるが、これも終わりと始まり。料理をひとつ作るのだってそう。食事だってお風呂に入るのだって、人と話をするのだって、とあることからとあることへと移行する時にだって、そこにもここにも始まりと終わりとが無数に存在している。そしていつの間にか私たちは知らず気を失っていて、その終わりと始まりの境目を意識することは無く、気が付いたら「終わっていた」だろうし、気が付いた時には「始まっていた」という体験をたくさんしている。
私という存在はその境目に出くわした時に、その度に実は生まれ変わるチャンスを手にしていたのだとしたら…と考えてみる。考えてはみるが、そこに居合わせるという体験を起こすことをイメージして考えた時、それがとんでもなく難しそうだと感じるのにそんなに時間はかからないだろう。

自分にわざわざ用意した眠りや瞑想から、ハッと我に返って気が付いた時、いつもとは違った方向から、いつもとは違ったものから、違った音が、違った色や形が聴こえてくる。見えてくるということがあるかもしれない。いつもには無い何らかの新しい意味と出会うことになるだろう。
何一つ変わりない気がするという場合にも、思い出そう。通常無自覚なままのものに対して、自らが自分に「終わり」と「始まり」というものを意識してみたということを起こしたこと自体が、すでに大きな変化なのかもしれないということを。
それは自分が自分に用意した「これまで」と「これから」という間における体験。意識的に用意したこの小さな立ち止まってみたという体験は「終わり」とそして「始まり」を意識したことによって、自分自身が小さく生まれ変わった瞬間を体験したとも言えるだろう。ほんの小さく、かもしれないが、自らが起こしたということは大きい。
そんな簡単なことで? そんなので?
そんな簡単なことで、である。

その本当のところの大きさをまだ知らない、まだ見えていない、という状態の自分であるということだろうことも知っておこう。意識を向けてたくさんの新しいことを知っていくほどに、私たちのそれまで価値観というものは変わってしまうことになる。いつかひっくり返るのだ。

時間や他者や環境など何かに影響され流されていくというだけでは無く、日常の隙間に小さくだけれど用意出来る、時間と場所から解かれてゆく自分のための時の使い方。そして意識の向け方。ほんの数分の静かな一人の時間の過ごし方、呼吸、瞑想など様々な形があるだろう。それらのすべてに「終わり」と「始まり」は存在している。
そしてこれもひとつの「旅」と呼ぶのなら、その響きに惹かれてしまった人にとっては、それはきっと忘れられない旅の始まりになるだろう。

写真と文 SANA(mizuno sanae)
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