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新書から考える(3) 「友だち地獄」(3) 〜「友だち地獄」現象への答えと、それに疲れた時の対処法〜 #6

前回の続きです。

なぜ若い世代は、つながっていたいのか」という疑問について、「友だち地獄ー『空気を読む』世代のサバイバル」(土井隆義氏著、ちくま新書、2008年)に紐づけて論じていきます。

現代の若い世代が「優しい関係」に加入せざるを得ないこと、そこからはみ出すことは、彼らにとって「居場所の喪失」を意味しかねないということを論じてきましたが、
なぜ若い世代は「優しい関係」を築かざる得ないのか?
本音を言ってぶつかりあえるような「優しい関係」ではない「真の友達関係」を築くことは難しくなっているのだろうか?

という疑問を抱いた方もいらっしゃるかと思います。

私が思うに、その要因は、若い世代は自己肯定感が低いことによって、他者から承認されたいという欲求が高まったからであると思います。

4 自己肯定感の低さと他者承認欲求の高さ

現代の若者たちは、自己肯定感が脆弱なために、身近な人間からつねに承認を得ることなくして、不安定な自己を支えきれないと感じている。しかし、「優しい関係」の下では、周囲の反応をわずかでも読み間違ってしまうと、その関係自体が容易に破綻の危機にさらされる。その結果、他者からの承認を失って、自己肯定感の基盤も揺らいでしまう。だから彼らは、この「優しい関係」の意地に躍起とならざるをえない。きわめて高度で繊細な気くばりが求められるこのような場の圧力が、彼らの感じる人間関係のキツさの源泉となっている。(P99~100)
最近の若者たちが、身近な人びとに対して過剰な優しさと過敏な配慮を示すのは(中略)それが自らの存在根拠そのものに関わるものだからである。だから彼らは、人間関係のマネージメントに互いの神経をすり減らし、その関係に少しでも傷がつくと、たちまち大変なパニックにおちいってしまいやすい。その関係の傷は、自らの存在基盤を脅かすような重大事だと感じられるのである。
(中略)
彼らは、そのような関係から離脱することも、けっして好まない。むしろ、そうした人間関係が破綻してしまわないように、さらに繊細に配慮しあって葛藤の要素を徹底的に抑圧し、ガラス細工のように緊迫した関係を営んでいかざるをえない。なぜなら、その関係こそが、彼らの脆弱な自己肯定感を支える唯一の源泉となっているからである。(P119~121)

【まとめ】
・現代の若い世代は自己肯定感が脆弱な傾向があり、他者からの承認を強く求めている。しかし、「優しい関係」の下では、周囲の反応をわずかでも読み間違ってしまうと、その関係自体が容易に破綻の危機にさらされ、他者からの承認も失って自己肯定感の基盤も揺らいでしまう。だから彼らは、この「優しい関係」の維持に躍起となり、ますます「優しい関係」に没入していくのである。
・要するに、承認されることが自らの存在根拠となるのだから、本気でぶつかりあえるような「真の友達関係」は、往々にして他者からの承認を得られないことに直結する。それは自らの存在根拠の崩壊を意味するものである。だから若い世代は「真の友達関係」よりも承認がされやすい「優しい関係」を求めたがるのである。

今までの記述を踏まえれば、「なぜ若い世代は、つながっていたいのか」という私の疑問について、一定の答えを導くことができると感じます。

5 「なぜ若い世代は、つながっていたいのか」への答え

現代の若い世代は自己肯定感が脆弱な傾向があり、他者からの承認を強く求めている。彼らにとって、他者からの承認は自らの存在根拠の基盤を作る大きな要素である。絶えざる承認を求めるため、彼らは「つながり」への憧れを強め、LINEやTwitter、InstagramなどのSNS、コロナ禍に至ってはZoomなどのオンラインミーティング・アプリでも積極的につながろうとするのだろう。
なお、承認され合う「優しい関係」は、「気を遣い合う」「衝突を避ける」「慎重な」関係であり、そこから離れることや、その関係の中で自らの思うように動くことが難しく、不自由で繊細な関係性であるが、そのような関係性が嫌だからといって一度「優しい関係」から外れてしまうと、自らの存在根拠の基盤が崩壊し、「自分には居場所がない」と錯覚してしまう。そのため、彼らは「優しい関係」に依存せざる得ないのである。

6 不自由で繊細な「優しい関係」に疲れたら

「優しい関係」に依存せざる得ないとはいえ、やはりそれは不自由で繊細な関係性であるため、精神的に疲れ、燃え尽きてしまうこともあるでしょう。また、そこまで承認を求めていない人からしたら、現状の若い世代の「つながり」重視の傾向が億劫に感じられるのではないでしょうか。そうした時、私たちはどう対処していけばよいのでしょうか。
私としては、3つあると考えています。

(1)他者と完全に分かり合えることができるという幻想を捨てる
欲しい言葉をくれたり、ここぞというときに助けてくれたり、価値観が完璧に合っている人なんていないと、私たちは認識すべきなのかもしれません。仮にそんな人がいたら、自分の分身か何かでしょう。コロナ禍において、私たちは今、周囲の他者との距離感を改めて考える時期に来ているのかもしれません。

(2)複数の共同体にゆるやかに所属する
ひとつの共同体に濃くい続けようとするからこそ、承認欲求などの、時には邪魔な感情が顔を出してしまうのだろうと思います。そうではなく、複数の共同体に、ゆるやかに所属することで、承認などを求めることのない、浅いかもしれないが、気を遣うことのない関係を築くことができるのではないでしょうか。

(3)一人を寂しいと思わない
これは私が大学生になり、もう「クラス」という、大人が決める共同体に縛られることなく、関わる人たちを、言い方は悪いが自由に「取捨選択」することができるようになったから、言えることなのかもしれませんが。

友達が多い方がいいといわれる風潮。
私としては、この風潮を真っ向から否定はしませんが、正直これに賛成する理由も見つかりません。
そもそも、友達って多いからいいものなのでしょうか。
全員が全員、友達が多くて幸せなのでしょうか。

道徳の時間であったり、様々な映画やアニメやドラマなどの映像作品であったり、「1ねんせいになったら 1ねんせいになったら ともだち100人できるかな」という、個人的には病気としかいえないような童謡によって、私たちは「友だちが多い方がいい」と、無意識のうちに心に刷り込まれていたのではないかと感じます。価値観の押し付けではないかとも思うのです。

結局、人生にとって一番大事なのは、自分が楽しいかどうかなのであって、友達の多い少ないが一番大事ではないはずです。友達が少なくても自分が楽しければそれでいいのだと思います。「優しい関係」から疎外されたとしても、それを「居場所が失われた」と後ろ向きに捉えないことが大事なのではないかと思います。
コロナ禍で、「自分で自分を楽しませる」ことの大切さを、私は強く感じました。この際、人は人、自分は自分だと割り切って、「自分」を楽しませることに全力を注いでみるべきなのかもしれません。

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