【介護小説】俺なんてどうせ負け組だから #4
そんな落ち着きなく勉強の成績は真ん中より上の方。運動は出来ると言っても、マイナー、スキーで全国選手。
夏は陸上をやっていたが、学校の陸上部はほとんど遊びのようなもので、練習をサボったり良くしたものだ。
当然、試合では悔しい思いをする。北海道の大会が出れるどころか中学1年生から伸びると期待されてた僕は、練習をサボりまくってたので3位入賞もできずに陸上を引退した。
そして、氷点下を迎える冬が来ると授業が終わると毎日スキーのジャンプ台かクロスカントリースキーのコースに直行していた。
北海道の旭川の冬は本当に寒い。”凍てつく街”という街という表現が似合うほどだ。
旭川と言えば、香川県の面積とほぼ同じくらい大きく。人口は僕が居た20年前で30万人弱だった。旭川の有名な作家は三浦綾子さんだ。
僕も旭川出身という事で『塩狩峠』は呼んだが、どんな内容かは忘れてしまった。
田舎の旭川暮らしで、狭い住宅に住んでいた。当時は母親が英語の塾の講師をしながら、ダンスの講師の二つをやっていて、親父は30を過ぎて医学部に入りなおした。
30から医者を目指す事は当時は『へ〜』くらいにしか思わなかったが、今思うと凄い事だ。
文系の親父が理系の医学部に30で入る頭があるのだから凄い
。京都大学出身とだけあって勉強は出来るのだろう。
その血を姉2人が継いだ訳で、俺は母親の血を継いだ事をいって母親と喧嘩した事を思い出すと、笑えてくる。
親父にすすめられて、スキーをやってみたら人口が少ない為に小学では入賞を量産した。そして、夏のマラソン大会でも常に上位になっていた。
小学生は、中学の時のように運動しないからだろう。そして、小学生の時はクロスカントリーではライバルが沢山いたが、中学になり、複合といいジャンプとクロスカントリースキーをするとライバルがいなくなった。というより旭川で複合をやっている選手は3人。
旭川の大会では、手を抜いてもいつも一位だった。全道合宿が始まる時には、北海道の早い奴ばかり集まるにので、練習がキツくて仕方なかった。
中学は勉強も中途半端、運動も中途半端になってしまった訳だ。どっちつかずの人生がスタートはここからしていたのか?と内省すると分かる。
ただ、中途半端な俺でも中学では苛めとかはしていたが、楽しめた。相談室に呼ばれて、正座したのも懐かしい思い出だ。
あっ、介護の話だったよね。そうそう。昔があり今の僕って事でキャラクターだけ書いとかなきゃと思い書きました。
次回、介護について書いていくよ!
介護を本気で変えたいので、色々な人や施設にインタビューをしていきたいので宜しくお願いします。