見出し画像

電子書籍とノスタルジー

去年とある電子書籍のサイトに会員登録をした。

元来マンガや小説が好きで、新刊の発売日には朝から書店に行き、予約した本が準備できたと電話やメールが来れば図書館に自転車を走らせた。

ページをめくって物語が進んでいく。次のページを見るのに紙がはらりとたわむ時のあのなんとも言えない高揚感。文字を追うと同時に頭の中で映像が流れる小説も私を物語の世界へ没頭させてくれた。

それがいつからだろうか。漫画の新刊をネットで検索してカレンダーに記録することも、週に一回は図書館に行っていたあの熱量も失われてしまったのは。活字を貪るように、寝食を惜しく思うほどに、あんなに私の生活の一部だったのに。

受験、引っ越し、就活、そして仕事。身の回りのことに忙殺されていつしか本や漫画を読むことよりも睡眠を優先させるようになってしまった。

働き出すと、より、好きなことや趣味をするには気力と体力がいることが分かった。始業に間に合うように出社するために家を出る1、2時間前から起床し、電車に揺られて出社する。8時間かそれ以上勤務して帰ってきたら夕飯を食べてお風呂に入ると私の電池は切れる。そして朝がまたやってくる。一体この生活のどこに趣味に時間と意識を割く余裕があるだろうか。

通勤電車の中で読書したいと思うも、頭を使う気力もなくひたすらに流れてくるSNSを斜め読みし、あとは寝るだけ。それか動画サイトを巡回する。

それをもう何度も繰り返している。なんだか虚しい。そして寂しくて、こんなはずじゃなかったのに、と思わずにはいられない。では一体どんなはずだったのかと自問してもそれは、と言葉につまる自分をただ情けなくも肯定するしかないのだ。

それでもやはり本は好きだし、漫画は読みたい。ここで話は冒頭に戻る。

テレビや動画を見れば必然と言ってもいいほど目に付くCM。いくつもの電子書籍のサービスが乱立していることは言うまでもない。なんとなく紙ではない本が本と言えるのかという疑念と電子の書籍などというハイカラなものに私は頼ったりしないという妙な反骨心があったものの、SNSに流れてくる広告に誘惑されて打ち勝てるはずもなかった。何を隠そう、私は昔から三度の飯より本や漫画が好きなのだ。

電子書籍がいかほどのものかという興味もなかったわけではない。何事も試してみなければ是非は問えない。誰に説明をするわけでもないのに、自分に言い聞かせ電子書籍のサイトに会員登録をした。そして気になっていた漫画を一冊買ってみた。クレジットカードを登録してポチポチと購入画面へ進んでいく。なんともあっけない。買う意思さえあればものの数分、いや1分足らずで読みたいものが手に入る。これはレジに持って行くまでにお財布と相談して買う本を絞り込む、といった動作がない分いくらでも本や漫画が手に入るような感覚になってしまうな、とそれまで抱いていた猜疑心はどこへやら、この時の私はすでに電子書籍への課金に片足を突っ込んでしまっていた。

電子書籍もそれほど悪いものではない。今までの引っ越しの中で売ってしまった漫画たちを揃え直すこともできる。しかもあくまでもデータを買っているに過ぎないから物理的に部屋のスペースを圧迫することもない。本屋や図書館に行くのに出かけていく必要もない。新刊が出ればサイトの方から通知が来る。自分で情報を取りに行く必要がない。いいこと尽くしではないか。

大人になったら欲しいものは大人買いできるようになるんだろうと、ぼんやり思っていた幼き私の願いも叶えられた。毎月いくらまで、と決めてそれさえ守れれば問題はない。私は格好のおもちゃを手に入れた気分だった。

でも何かが引っかかる。というより、足りない。

自分の趣味を多少なりとも取り戻せたというのに何が不満なのか。変わらず物語の世界には没頭できるし、読み終わったあとの夢見ごごち加減も変わらない。でも決定的に違うことがある。

それは経験だ。

昔の私は何でそんなに読書が好きだったのか。もちろん本の中身が面白いからだ。ちょっと前までの私も、話が面白いから好きなのだと、趣味なのだと思っていた。でも違った。正確には違わないけど理由としては不十分だった。

小説や漫画を手に入れるまでと、手に入れてから読み始めるまでのプロセスが違う。そして本屋や図書館で自分よりも背の高い本棚に囲まれて本を探し、選ぶあの時間がなくなってしまったことが決定的に違う。

特に中学生の頃は、手元にある本を読み終われば新しい本を求めて図書館に向かった。学校から帰り、着替えて閉館間際の図書館に駆け込んでいた。シリーズものの本の新刊が出るとわかれば一番に読めるように予約表に記入した。予約本の準備ができたと連絡が来れば、すぐに自転車を走らせたし、親に車を出してもらうように頼んだこともあった。予約した本が準備されたことの連絡は学校に行っている間に来ることが多かった。帰宅したら真っ先に固定電話を確認したし、留守電のボタンが点滅していた時には心躍ったものだった。

人は便利なものに流される。私もそうだ。私にとっては昔はこうだった、こうしていた、というものが今も存在していることは分かっている。昔やっていたことが、今はできなくなったのが全て環境のせいかと言われるとそうではない。私が選んで昔と同じことをしなくなったのだ。それが自分でわかるから色んな理由をつけて今があるのに、昔を懐かしんでノスタルジックな気分に浸っている。かつてはこうだったと昔の方が良かったと口先で言葉を並べても、今が昔と違うのには悲しいくらいに自分に由来する理由が山ほどあるのだ。

「人生は選択の連続だ。」有名な言葉がある。これは本当にそうだなと最近痛感している。流されているようで、知らず知らず自分の意思を持って流れに身を任せているのだ。

ただ、昔を懐かしんでしまうのは、今を後悔しているからではない。過去と現在は違うのだと自覚するたびに、自分が変わってしまったことにただただ寂しさを覚えてしまう。良くも悪くも大人になってしまったのだ。

ひたすらに寂寥感に苛まれる。でもそれを一旦は別のものの所為にして、受け入れて行くには時間が解決してくれるのを待つしかない。大人になった寂しさを今回たまたま、私は電子書籍を通じて自覚しただけのことだ。

大人になることが悪いことばっかりかというとそうではない。ただちょっと厄介な感情を飼い慣らしていくことが必要になっただけだ。きっとそれが歳を重ねるということなんだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?