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見返りを期待する心

因果応報(≒見返りを求める言動)

体験と気付きとで得た知恵🍀

今改めて顧みると、対人関係での認知、
愛する、信じる、挨拶する、感謝する、
喜びや安心感のキャッチボールをする、
などと言う総ての行為・態度・言行は、
その相手から、大小(多少)に関わらず、
心のどこかで何らかの見返りを望み、
求めることに繋がると心のどこかで意識
しながら生きて来てしまいました。

🧡人として相手にされたことに対し
 当たり前に返すべきことは
 見返りを望むなのでしょうか?


🧡人として当たり前と応えるべきこと
 ≒見返りを求めることの線引きは
 一体何処でするのでしょうか?

🧡思い(想い)を届ける思い遣りに
 応える活動は見返りなのでしょうか?


🧡人として、社会人として挨拶は当たり前
 と言う意識を持つのは見返りを求める
 ことになるのでしょうか?

🧡こんな時と思えることに立ち会うのが
 当たり前と考えることは見返りを求める
 ことになるのでしょうか?

🧡感謝や礼は手段を考えて伝えることが
 当たり前と思うことは見返りを求める
 ことなるのでしょうか?

🧡自分の常識で、相手を無視せず応える
 ことが当たり前と言うことは、
 見返りを求め過ぎなのでしょうか?


人は他人の言動や態度をどうしても自分の
ものさし」で判断することが多々あります。

他者に親切やお世話、手助けをする時に、
何らからの見返りを期待しないですること
は人として当たり前なのでしょうか❓

他人から責められたくなければ、
自分から他人を責めてはならない。

そう心(頭)で理解していても現実として
中々実行に移すことが出来ないのが人間です。

やはり好きな人には、自分も好かれたいと
求め願うと言う見返りを求めてしまいます。

例えば、
何かで自分のしたことで人としての功徳
が積めた、本当に良いことが出来たなぁ
と思えれば何もその相手や周りの人達から
お礼を言われ何らかの形で賞賛されずとも
自分自身の心が嬉しくなり、満足出来ます。

人はきっと最初に何か見返りを期待している
と自分自身が良いことをした、と言う結果に
満足出来なくなってしまうものでしょうか❓

何か自分自身も良いことをした時と思えた時に、
ついつい相手に礼やお返し、または誉められたい
などという気持ちが心の中に起きているか否か、
ということにも日々気を付けたいものです。

見返りと恩返し

大人になり善し悪しに関わらず様々な
「見返り」と言う言葉の持つ意味を知り、
子供の頃に見かけた親が何等かのお世話
になった方に対し怠ることなく何らかの形
でお返しをしていたことを思い出しました。

日本では、
他人から好意や親切で何かの行為をして
頂いたり価格の高低に関係なく形のある
物品を頂いたりするなどこちらから感謝
を伝えなくてはならない時、何らかり形
でお返しをする風習がお中元やお歳暮と
言ったことで表わし伝える習慣があります。

人は、他の人の出来ない親切やお世話をしたり、
高価で特別な何らかの物を差上げたりした時、
人は無意識の内に、感謝(謝意)と言う「見返り」
を求めてしまうものです。

例えば、
🔻愛されることを求め望むよりも、
  こちらから愛するほうが幸せに成れる


🔻魅力は与えるもの、人に魅力を求めたり
  望んだりしてはならない。


🔻他人にお世話や親切にする時には、
     無私に心掛け、見返りを望まないでする。


🔻他人から批評や批判されたくなければ、
     自分も他人の批評や批判してはいけない。


🔻他人から責められたくなければ、
    自分も他人を責めてはいけない。


人としての煩悩の一つとされる
この様な「見返り」を期待し望み求める
気持ちを持たないようにすることは、
実際に頭では判っているつもりであっても
中々実行できることではありません。

私達凡人は、
好きな人や愛する人には、
好かれ愛されたい大切にされたい
と思い、求め願ってしまうものです。

折角他人に親切なことをしたのに、
何も感謝の言葉や態度がなければ、
ガッカリしてしまいます。

時に、
感謝やお礼の言葉や態度が示されず、
その人を許せなくて御縁や繋がりが
途切れてしまうこともあります。

自分が批判された時は、
「他の人だってやっているじゃないか」
とつい他人を責めたくなります。

どうすれば、見返りを求めず期待せずに
人に優しくすることが出来るのでしょうか❓

他人への愛情、善意、情けは、
何らかの形で必ず自分に返って来る、
と過去の人生体験からも感じました。

相手から直接感謝されなくても、
巡り巡って他の誰かが返してくれます。

自分のした行為そのものが返ってくる
というよりも、態度・行為や心掛けが
幸せや運を引き寄せ自心に呼び込みます。

優しさと見返り

人は他人に優しく出来るから、
他人からも優しくして貰える。
優しくされることが嬉しいから、
益々他人に優しくなれるように努める。

上手くその好循環に乗れば、
ことさら「他人に優しくしよう」
などと義務的に考えなくても、
「そうせずにはいられない」
と思えるようになれるものです。

問題は、
どうやってそのキッカケを掴むかです


折角、他人に親切屋お世話をしても、
感謝されなければやはり損だと受止め、
親切が無駄になるのは馬鹿馬鹿しいなど
と考え尻込みするのも無理はありません。

しかし、自分のした親切を
「見返りを求めて、親切にする」
のではなく、恩赦
= 「過去に受けた親切に恩返しをする」

と思考し、取組めば良いと受け留める
と今迄生きて来れた体験から学びました。

その学びは、
自分が先に親切にした」と思うから、
見返りを求め期待する、と気付きました。

人は、過去に見知らぬ人や他人から
親切にされたことがあるはずです。

例えば幼児と言われる子供の頃は、
みんな他人の手借り、煩わせなければ
到底生きて行くことはできません。

今迄無事に生きられていられると言う現実は、
親族を初めとした数え切れない多くの人々の
お世話になっている「証」と教えられ学びました。

自分は何も親切にしていないのに、
無償で親切にして下さった人もいる筈です。

自分でも気付かぬ内に他人に迷惑をかけて
しまったこと、不用意に他人を傷つけたり
してしまったこと、それらを黙って受容れ
許してくれた人も少なからずいるはずです。

その恩に報いるために、他人に親切にする
と気付かされました。

その相手に直接お返しをすることが
出来なければ他の誰でも構いません。

人に優しくされたから他人に優しくする。
他人に許して貰ったから自分も他人を許す。
その善意の輪廻は決して無駄になりません

見返りが得られるだろうかと不安を感じる
ことも必要ありません。

自分の善意そのものが、他人への見返り故、
それで目的を遂げたと言えるのです。

他人に親切にすると言っても滅私奉公の
ように重苦しく考えることはありません。

折角の善意も度が過ぎてしまえば、
要らぬお節介となってしまいます。

身の丈にそぐわない大それたことしよう
と思わなくても生きて行けるのが人間です。

相手の為に働いたり、物を与えたりする
ことよりも最も他人のためになることは、
「相手を尊重する」=リスペクトすること、
例えば
心を込めて挨拶し、話を聴き共感することです。

相手の幸せや嬉しいことを共に喜び、
落ち込んでいる時にはそっと見守り、
逆境にある時も決して見捨てないこと。

相手の存在を認めること
以上の優しさはありません。

日々コツコツと己の出来る小さな善意を、
積み重ねていけば良いと思います。

それに気付いた頃には「愛し、愛される」
と言う大きな循環が自然に出来上がります。

辛さや苦しみの原因は多くあると思います。
その一つは
「見返りを求める心」ではないだろうか❓
と歳を重ねて思い至るようになれました。

愛というのは、
無私無償の心でする心身の活動ですが、
人間の備え持つ欲や感情が邪魔をします。
だから、人生は面白いのかも知れません。

私達はあらゆる場で愛を学んでいますが、
何故か「愛」はその見返りを求めた時点で、
心の中から消え失せてしまいます。

見返り求めると愛は消える」のです。

してやった、してあげたと思った時点で、
愛する行為にはならない、と受止めます。

ボランティアでも、
「してやった」と思った瞬間に、不思議と
相手に伝わりそれが相手の負担になります。

私は、様々な形で思い遣りを学ぶ中で、
無償の愛「ギブ&ギブ」という考え方を知り
先ず与え、見返りを求めず更に与える
という、見返りを求めたり期待せずに
与えっぱなしという考え方を知った時、
これだ!」と共感し、とても感動しました。

その後、
何の見返りも期待しない、求めない、と言う
無私の気持ちに心掛けながら人と触合いました。

正直に言って、
そう心掛けることは生きて来られたことの
「恩返しする」ことよりも、今迄の人生で
犯してしまった人として決して成してならない
行為をして来たことに対する因果応報であり
罪滅ぼし」の気持ち、と受け留めています。

これは、自分自身の心との戦いであり、
その戦いは現在もなお継続しています。

喩え、一方通行であったとしても
命ある限り自分自身の邪心と闘いながら、
この様な投稿をして行たいと思います。


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