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心が現れる報恩[感謝・謝徳]

※明日からお盆に入ります。
 その前にお盆の心報恩・感謝・報恩・謝徳
 の夫々の心を知っておきましょう。


💟報恩・感謝・報恩・謝徳の解説

(以下一部学びのメモより転載)
施して報を願わず、
 受けて恩を忘れず。

江戸時代中期の学者・中根東里が著した
『東里新談』の中の言葉です。

これと同じような意味を持つ
受けた恩は石に刻み、
 かけた情けは水に流せ。

と言う言葉もあります。

人に物を贈って、
 見返りやお礼を期待するな、
 人から物を貰ったら直ぐに
 お礼をしなさい
」と言う人としての
 謙虚さ感謝の心の在り方を表した言葉
 で子供の頃親から言われた言葉です。

この「施して報を願う」とは、
自らの行為を必要以上に誇示して慢心する
ことを言い表し人に「恩に着せる」ことです。

また、
受けて恩を忘れず」とは、
人から貰った恩を、恩と感じて、
それに報いようとする行いであり、
仏語の報恩感謝であると言えます。

私達は普段の生活で、
社会人としても、一企業人として人の上に
立ち導く者として、その人の人物を観る時や
御縁を育もうとする際その人の心身の活動の
により人物を判断することがしばしばあります。

どこまでが報恩感謝であり礼を示すことで、
どこからは恩に着せることなのか?

人付き合いの上で、このことの線引きは
歳を重ねる毎に高くなるように思われます。

体験からも、
人に何らかの恩を受けそれに報いるひとり
の人として礼を返すことの活動が適切か
否かを判断するのは凄く難しい、ことです。

よく立場が人の心と言動を変えると言われ
謙虚さと謙遜が引き合いに出されます。
心が現れる報恩[感謝・謝徳]


例えば、
何かの役に立てばと思い、
他人に何らかの活動をした際、
その人が恩を感じ感謝と礼を示す人、
感じていても示と表さない人、
当たり前と受止め何もして来ない人、
人それぞれで、その心は千人千様です。

しかし、
一人の人間としての心の在り方を確り
備えることはいつの世でも変わりません。

喩え他人にどう言われようが、
人とて正しい道の選択をしその道に沿い
自らの信じた報恩感謝の活動をすべきです。
見返りの心の在る心身の活動は逆作用です。

様々な人の思惑が交差する現代社会においても、
素直な心を持ち、周りの人から沢山の恩を受け
生かされ生きていられることに心を配りながら、
日々、報恩感謝の心を忘れずに生きて行きましょう。

支えられ生かされている私達

💖感謝報恩の心

(松下幸之助氏の言葉より)
感謝報恩の心を持つということは、
人間にとってきわめて大事なことである。

いうまでもないことであるが、
人間は自分一人の力で生きているのではない。
いわゆる天地自然の恵みというか、
人間生活に欠かすことのできない様々な
物資が自然から与えられているのである。

また多くの人びとの物心両面にわたる
労作というものがあって、
はじめて自分の生活なり仕事
と言うものが存在し得るのである。

言い換えれば、自然の恵み、
他の人びとの働きによって、
自分が生きているわけである。

そう言うことを知って、
そこに深い感謝と喜びを味わい、
そして更に、そうした自然の恵み、
人々の恩に対して報いて行くという
気持ちを持つことが大切だと思う。

そういう心からは、いわば無限の活力
とでもいうものが湧き起こってこよう。

それが事を成して行く上で
非常に大きな力となってくると思う

🍀報恩謝徳


🔲紫雲山 慈唱院(しうんざん じしょういん)
 ~ホームページより転載~

「報恩謝徳」は『ありがとう』の祈りです。

お願いを聞いて下さったお礼、
危ないところを助けて頂いたお礼、
日々守って頂くお礼。
予定欄にこの文字が入る事
ほど嬉しい事は有りません。
人はつい、お願いする時ばかり
お参りを一生懸命されますが、
喉元を過ぎれば何の報告も無い方
も居られます。

「お陰様」には是非「有難う」の参拝を
心がけて頂きたいと思います。
「有難い」の心にこそ【あたりまえ】
【不足】の暗闇を払う幸せの光が有ります。

「お礼参り」ほど神仏の喜ばれる
お参りは有りません。

【恩に報い徳に謝す】
と訓読みされまして、
受けた恩や徳に報い、
感謝の気持ちを持つことです。

📚辞書検索四恩-日本国語大辞典


四恩〘名〙
仏語。衆生がこの世で受ける四種の恩。
経により内容を異にし、心地観経では、
父母の恩・衆生の恩・国王の恩・
三宝の恩の四つ、
正法念経では、
父の恩・母の恩・如来の恩・
説法法師の恩を数える。

島崎藤村の『夜明け前』 
第二部・下10章2節に
【報恩謝徳】がでています。

もとより神仏を敬する法は、
みな報恩と謝徳とをもってする。

これを信心と言う。
自分の身に利得を求めようとするのは、
皆欲情である。

【報恩謝徳】の厚志があらば、
神明の加護もあろう。
仏といえども、
道理に違(たが)うことのあるべきはずがない。
自分らには現世(ゲンセ)を安穏にする
欲情もなければ後生に善処する欲情もない。

天賦の身は天に任せ、
正を行ない邪に組せず、
現世後生は敵なく、神理を常として真心を
尽くすを楽しみとするのみだから、すこしも
片手落ちなどの欲念邪意があることはない。
これが松雲和尚の包み隠しのないところであった。

📚仏語辞典の解説

https://bukkyouwakaru.com/dic/s41.html

💑なぜ?感謝が出来ない(一部私見有り)

知恩・感恩・報恩の教え
よく「感謝ができない」という
悩みや相談を受けたことがあります。
子供の頃から、
学校や両親から「感謝しなさい」
と教えられてきました。

色々な自己啓発書の中にも、
「何事にも感謝しよう」と書かれています。
ですが、「感謝しなさい」と言われても、

「どうしたら感謝する気持ちになれるのか」
「どのようなことが感謝の心を表すことか」
と言うことについて教えてくれる人は
少ないのではないでしょうか。
※➡感謝のテキスト・ドリルを作った理由。

📖感謝のテキスト・ドリルダウンロード

どうしたら感謝出来るのかが
分からない人に感謝しなさいと言っても、
感謝ができない自分はダメ人間だと思って、
落ち込んでしまうかもしれません。

お釈迦さまはこれについて、
知恩(ちおん)、感恩(かんおん)、報恩(ほうおん)
の三つを教えられています。


この知恩とは、
自分が支えられていることに気が付くことです。
「自分は、誰にも頼らず、生きている」
と思っている人はいても、実際には
自分だけの力で生きている人はありません。
必ず、誰かの何かの支えを受けています

今の自分の幸福は
一体誰の幸せのお陰でしょうか?

自分が色々な人や物に支えられていること
を知れば「有り難いな」「嬉しいな」という
感謝の心が湧いてきます。

そもそも感謝が出来ないのは、
自分が受けている「おかげ=お蔭」の心
を知らずにいるからです。
だから先ず、
知恩(自分が支えられている)ことを知るです。

支えられていることに気が付けば、
感恩の気持ち(感謝)が出てきます
支えられていることを知れば、
有り難いという感謝の気持ちが湧きます。
これが、【感恩】と言うことです。

幸せな人が感謝するのではなく、
感謝する人が幸せになるとも言われます。
世界で最も不幸な人は感謝の心のない人です。

どんなに財産や名誉がなくても、
感恩の心のある人は、幸福なのです。

感恩の気持ちは、報恩になります
有り難いなという感謝の気持ちになると、
「自分を支えてくれた人のために頑張ろう」
と言う気持ちになります。
これが報恩です。

報恩謝徳とは

(以下は学びのメモより転載-出典不詳)
恩に報い徳に感謝すると言うことです。

「恩」には四つの「恩」があります。
「四恩」と言います。

「徳」には「めぐむ」という意があります、
「四つの恩」から得ている「めぐみ」に
 感謝し、報いていくということ
【報】は、
   幸と卩と又から作られた会意文字です。
   幸は、手枷(てかせ)の形です。
   卩は、ひざまずいている人の形です。
   又は、右手の形です。

【報】の字は、
   両手に枷(かせ)をはめられて
   ひざまずく人を後ろから押さえる形で、
   犯した罪に対する報復刑的な処置を
   表した会意文字です。

【恩】は、
   因+心から作られた形声文字です。
   意味は「めぐみ」、「いつくしみ」です。
【報恩】の意味は、恩に報いることです。

【謝】は、
   言+射(音符号)から作られた形声文字です。
   意味は、あやまる、わびる です。
【德】は、
   彳+省+心から作られた会意文字です。
   目の呪力(まじないの力)を
   強めるために眉に飾りをつけ、
   その強い呪力のある目で巡察
   (彳:行く意味)すること、
   見回ることを言います。
【德】は、
   呪力は人がもともと持っていた
   内面的な力であることから、
   德という概念が生まれたそうです。
【謝德】は、
   受けた徳に対して感謝すること。


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