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あの時そうだったかもしれない自分を振り返る

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

今日は、毎週楽しみにしている『ドラえもん』の放送日です。
毎週の30分の放送の中で、いつも2つの話が流れるんですが、その内の1つが、「のび太が幼少期の自分をタイムマシンで連れてきて、過去の自分を弟に見立ててお兄さん体験をする」という話でした。

その中で、のび太のお母さんが、幼少期の“小のび太”を見かけて、「どっかで見たような気がするけど・・・」と、数年前まで自分が育てていた自分の子どもをなかなか思い出せないという面白さがありました。

それを見ながら、「もし、自分が、のび太ママの立場だったらどうなるんだろう?」と考えて見ました。

真っ先に頭に思い浮かんだのは、「目の前にいるのが“過去の子ども”だってすぐにわかるんじゃないのかな」という事でした。

それと同時に、「自分の記憶力に全く自信が無いのになんでこの答えが真っ先に浮かんできたんだ?」という「問い」が浮かんで来たんです。

もちろん、こんな「問い」が浮かぶくらいなので、僕は自分自身について、「親である自分は、子どもに対して無限の愛情を持っているからどんなに困難で挫けそうでも必ず愛は勝つ」とは思っていません。だから、もし、タイムマシンなんて物が存在する世界だとしても、「自分はもしかしたら過去の子どもを判別する事は難しい」と思うはずなんじゃないのか?そう思うのが、自分が認識している自分が考える可能性の高い回答なんじゃないのかなあと思ったんです。

だけど、実際は「すぐわかるんじゃないのかな」と考えた。そうなると、自分が認識している自分が導き出す答えとのズレの理由は一体なんだろうか?

これを考えてる時に可能性として思い浮かんだのは、「スマホ」でした。

「スマホ」を文字通り携帯する事によって、日常の色んな物事を写真に撮るという行動を、当たり前に行うようになりました。例えば、会議などで会社のホワイトボードに書いてある内容は、昔だったら必ずその内容をノートなどに書いて写し取るという、なかなかに時間がかかる事をしていました。でも、今は、スマホで写真に撮って、必要な時にはその画像を見直すだけ。それはそれは便利な時代になりました。

同じように、スマホで撮った写真の中には、ホワイトボードの会議内容や、読み終えた本の表紙、友達と一緒に遊んだ時の様子、観光地の景色、買ったばかりの靴etc。そんな、色々な写真が日々どんどん増えていきます。

もちろん、そんな写真の中には、「子どもの写真」も過去からずっと撮ってあったりするわけです。

写真を「撮る」のも「見る」のも、全てこの「スマホ」一つでできるようになりました。
もちろん、スマホが普及する前も、「カメラ」という写真を撮影するためだけの機械によって日常的に子どもの姿を写真に撮るという行為は多くの人がしていましたし、現像した写真を、アルバムに入れて、家でゆっくり見るという行為は行われていました。

だけど、昔のその行為には、必ず「時間」が必要でした。
「撮る」と「写真が手に入る」までに「時間」が必要でしたし、「写真が手に入る」と「写真が増える」までにも「時間」が必要でしたし、何よりも、「写真を見る」という行為をする為にも、「時間」が必要でした。
つまり、「写真を見る事で、過去の思い出を鮮明に思い出して、記憶の中の映像を更新する」という行為を行うために、「時間」が必要だったということです。

だけど今は、「スマホ」のおかげで、撮りたいと思った時に「すぐ」撮って、見たい時に「すぐ」見れる。つまり、そこに「時間」をほとんど必要とする事無く、記憶の中の映像を更新し続ける事が可能になった。しかも、かなりお手軽に。

こういう背景がある事で、今日の『ドラえもん』の話を理解するためには、今の僕にとっては、ちょっと頭を使わないとすんなり理解ができない状態になっていたという事なんじゃ無いかなと思ったんです。

ここまで「スマホ」が普及していなかったその昔、恐らく、藤子先生がこの話を作った時代であれば、今日のこの話は、僕だけでなくこれを見たほぼ全ての人達が、特に何の疑問を抱くことも無くスンナリ理解して楽しめたんじゃないかなと思います。
でも、藤子先生が健在で『ドラえもん』を連載していた時代、まさにその当時の子どもとして生きて、この作品を楽しんでいた僕が、今日のこの時点で、「のび太ママの反応」についてちょっとだけハテナを感じたという、この事実に、僕自身が少しだけ驚きました。

『ドラえもん』についての話題で、「今は、ドラえもんの秘密道具が現実に存在しているから子どもにとってはあまり驚きが無いんじゃないか?」なんて話をたまに見聞きする事があります。例えば、「現代の子ども達は、『もしもボックス』を見ても何だかわからない」というのはそれが示す最たるものなのかもしれません。
そんな風に、「“秘密道具そのもの”に対しての捉え方で、作品の楽しみ方が変わるのかもしれないなあ」なんて思う事はあったんですが、作品の中で起きている事象についての登場人物の反応について疑問を持つ日が来るとは思いもしませんでした。

その時代に生まれた作品だったら、もしかしたら、こういった「ちょっとしたパラドックス」のような物は生まれづらいのかもしれません。
恐らくそういった作品は、作り手が対象にしているのは「現代の子ども達」であり、作り手自身も「現代に生まれて現代を生きている人」がほとんどでしょうから。
でも、過去に生まれた作品でそれが現代まで継続している物だったり、過去の作品をリメイクして現代の作品としていたりする場合には、恐らくその作品の対象者は「現代の子ども達」なんでしょう。そうすると、その話の中身について「過去の時代を過ごしてきて現代を生きる人」だけで作ったり検証したりするんじゃなくて、「現代に生まれて現代を過ごしてきた人」だけで作って検証するという事が必要なのかもしれないなあと思ったんです。

「現代に生きる人に向けた作品(サービス)」を提供するとしたら、「世代間ギャップ」みたいな物を如何にして埋めていくかとか、取り除いていくかという事が、必ず必要になる。それが、「古典」として提供するのであれば、「そのまま」という事に意味や価値があると思うんですが、あくまでも「現代向けサービス」なのであれば、そこが「仕事」として重要になってくる部分なのかもしれない。

だけど、その為には「絶対に自分では理解できない部分」について、どこまで理解できるのか。その為に、「どんな材料をどれだけ集めて何をどこまで考えるのか」そうい途方も無いけど、絶対に必要で重要な事を、これからも更に続けていく必要があるよなあ…。そんな、これまでの取り組みについての方向の正しさを認識すると同時に、その方向に向けるエナジーの絶対量を増やさないといけないんだろうなあという、「やらなくちゃ」が、休みの日の『ドラえもん』を見ながら湧いてきました。

こういうところの視点も含めて、『ドラえもん』はやっぱり自分達の仕事に活きてくるよねと、あらためて考えていました。

これを、さも、それっぽく話す事ができれば、晴れて堂々と「ドラえもん観るのも仕事なんですよね」と会社で言えるかもしれないぞ(もちろん、反語です)。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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