見出し画像

終わりと始まりと区切りと連続について

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

今日は、当社主催のオンライン哲学対話を「終わり」というテーマで実施しました。

年末という事もあったのか、今年の4月から開催以来初めての満員御礼となりました。参加していただいた皆さん、ありがとうございました。

「終わり」をテーマに、様々な話に及びとても楽しかったんですが、その中でも僕が一番心に残ったのは、ある参加者の「(打ち切りになって連載終了した)漫画の終わりが、同人誌の始まり」っていう言葉でした。

何かの終わりが何かの始まりっていうのは、色んなところで言われているし色んな本とかでも見た記憶があるし、どこかで誰かが言っているのを聞いた事もあるようなフレーズなので、僕の中にもボンヤリと「何かが終わって何かが始まる」的なモノの捉え方はあったんだろうなとは思います。
でも、この「漫画の終わりが、同人誌の始まり」っていうフレーズは、その中に“連続性”みたいなモノが込められてるのかなと受けとったんです。
僕は、ここで言う同人誌って、「主に原作者以外の誰かが、元の作品をベースにした世界観に基づいて、原作では描かれていない内容を描く」という事だと解釈しているんですが、てことは同人誌っていうのはまず原作ありきだろうと。
で、原作を元に同人誌が生まれて、その同人誌にもファンがついて、その同人誌の同人誌ができて…のように連続していくのが想像されます。
そもそも、ここで言っている「原作」というモノは、もちろんその原作者オリジナルのモノであるのは大前提です。そこについてのリスペクトは当然、僕の中に存在します。で、そのうえで、書いているんですが、そのオリジナルの原作を生み出した原作者の中には、必ずその下地になっている“何か”が存在するんじゃないかなと想像するんです。
例えば、漫画であればその物語の大筋の土台になっているかもしれない例えばビルドゥングスロマン的なモノなんかの、物語を作る際のフォーマットのように、どんな名作にも織り込まれている、言うなればずっと使いまわされ続けている基本と呼ばれるようなモノにも“連続性”を感じます。
もっと言うと、「今までに無いような漫画を作ろう」という作者の意気込みとか創作意欲のようなものも、それまでに存在してきた「今までに在ったような漫画」が無ければ作られないって事だと思うので、そこにも“連続性”があるような気がするんです。
もうちょっといくと、絶対に有り得ない仮定の話ですが、例えばドラゴンボールの「精神と時の部屋」のようなところに、生まれた時からずっといて、何の創作物にも触れないで育った場合に、「漫画」を生み出す事ができるんだろうかと考えると、恐らく不可能だろうなと。もちろん、言語も持っていないという事になるはずなので。そうなると、漫画どころか「考える」って事すらもできない可能性もあるんじゃないのかな、とか。

ここまでくると、これはもう「漫画」という枠内に収まるような話ではなくて、遥か昔からずっと途切れることなく続いてきている人間の生命活動という「生きる」という事の中で、誰かが、その中のどこかの部分を切り取ったり拡大したり縮小したり分解したり融合したり、何やかんやして何らかのカタチになったモノを、誰かが受け取って、それをきっかけにまた誰かの「生きる」の中の何かと繋がってカタチになったモノを…(以下略)
のように、ずっと続いているようなモノなんじゃないのかなと思ったんです。例えば、食物連鎖とか自然の営みのような事に繋がっていくような感じというか。

そうなってくると、哲学対話の中で色んな人が言及しえいた「始まり」について、僕も考えたくなってきています。

そうだよなあ、「始まり」について考えてみるっていうのも面白いよなあ。


・・・

・・・・・

あれ?

そう言えば、

2021年に当社が開催するオンライン哲学対話の初回のテーマが「始まり」だったんじゃないかな?


という事で、はからずも(?)告知になってしまいましたが、2021年1月3日に、当社主催のオンライン哲学対話を開催します。

大抵、初参加の方も来てくれるような、初心者大歓迎のイベントとなっておりますので、気軽にご参加下さい。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


#ビジネス #仕事 #群馬 #高崎 #対話ベース #組織開発 #人材開発 #外部メンター #哲学対話 #P4P #知的アクティビティ #挑戦と達成をデザインする #主役から主人公へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?