ノルウェイの森

こんばんは、ほとんど1年ぶりの投稿になりました。アメリカにいた頃は、毎日書くぞと意気込んでいたのですが、そんなことも頭に一切の通過も余すことなく、アメリカでの夢の留学生活を終わってしまいました。

現在は、社会が生み出した就活という影に追いつかれまいと必死に逃げているような生活を送っています。

なぜこのような回りくどい書き方をしているかと言いますと、村上春樹のノルウェイの森を読破したからですね😁

日米文化比較の授業でノルウェイの森を全ページ読む機会がありました。大変素晴らしい作品だなと思ったので、感想を書きたいと思います。
(僕の苗字もワタナベなので、なんだか親近感が持てました😃)

ワタナベ君の淡くも酸っぱい青春の日々をもとに展開されていくストーリー。授業の大元のテーマになっていたのは、

ロマンス(恋愛)小説であるか
青年の成長の小説であるか、でした
(英語で行う授業なので、coming ageと英語では言われていました)

僕はどちらともそうは思いません。
僕はノルウェイの森は

死と性欲を中心に物語が展開されていく小説だと思いました。

まず死がこの小説の大きなテーマであることは、誰の目から見ても明らかであると思います。
キズキの死はワタナベと直子にあまりに大きな傷を残しました。直子に至っては、おそらく一生治らないんじゃないのかな、と思わせるほどの心にキズとなり、それはワタナベにとっても同じで、ことあるごとにキズキと彼の死がワタナベの心情を動かしていきます。
そしてキズキの死をきっかけに、ワタナベと直子は現在もなんだかぼんやりと生きており、まるで2人も死人であるかのような印象を受けました。そしてやはりワタナベと直子の恋も決して叶うことのない死んだ恋でした。

お互いに形骸だけを取り繕って恋をしているような。直子がワタナベにキズキを重ねていたのは明らかですが、ワタナベもただ直子の身体のみを求めていたような気がします(後述します)

そんな死とは対照的に描かれていたのが、緑の存在です。

授業で、私はkindleで読んでいたので気付かなかったのですが、文庫版でのノルウェイの森の上下の本の表紙の色がなぜ赤と緑であるか、という話題が出た時に、なるほどな、これはミドリの緑色と直子の赤色なのだな、と思いました(なぜ直子が赤色なのかはわかりません。もしかしたら死と対比させた生きている証の鮮血の色?)

とにかく緑は直子と対照的に描かれていきます。楽観的で、下ネタ大好きで、わがままで。そんな緑の中に、彼女自身も言っていることですが、ワタナベは生を感じます。本の中では
「生身の血のかよった女の子」と表現されていました。まさに緑はこの小説における、生の象徴です。
さらにワタナベは緑に対する愛情と直子に対する愛情も、実にストレートに対比を使って表現しています。
直子に対しては、恐ろしいほど静かで優しい愛情であるのに対して、
緑に対してのものは、直子とのものとは全く違く、まるでそれは立って歩き、呼吸し、鼓動していると、直子への愛情は呼吸をしていなくて、鼓動していない、死んだようなものであるとも捉えられる、間接的であり超直接的な対比表現をしています笑笑😆

次に性欲の物語であると思いました。皆、自分の性欲に忠実に動いています。
数多くの場面に登場する生々しい性描写は、人間の本当の姿を表しているように感じました。
食欲、睡眠欲、性欲は人間の3大欲求と言われますが、僕は人間を人間たらしめているのは、この性欲が1番大きいと思っています。
ワタナベがあみ寮で見た直子の完全なるボディはまさにワタナベ自身が性欲に追従して生きている印象を抱かせました。
直子への愛を宣言していたワタナベですが、その根底には直子の身体をただ求めている純粋な性欲があって、彼女の完璧な身体を回想するたびに、僕にはただワタナベが直子と行為に及びたいだけで、愛情やら云々は後付けである可能性もあるんじゃないかと思うようになりました。

長くなりましたが、ノルウェイの森は本当に素晴らしかったです。最後に緑との恋愛が描かれるかと思いましたが、まさかの終わり方に、終わり!?終わった!と思わず独り言を呟いてしましました。僕はこの終わり方も好きですし、最後にワタナベに緑と幸せになって報われてほしい思いもありました。

ドイツに向かっているということは、おそらく永沢に会いに行っているだろうと思われますが、緑は置いていっているのでしょうか?それとも過去の淡い思春期の一部として、緑もそこに取り残されているのでしょうか。

最後に授業の先生(外国人)が突撃隊について自分の意見を述べていて、彼の意見が面白かったので追記しておきます。
急に寮からいなくなってしまい、そのあとはなんの音沙汰もない彼ですが、一体どこにいってしまったのでしょうか?
先生の意見は、ファイティングクラブ理論でした♣️
どういうことかというと、本当は突撃隊とあだ名されている人物などは現実には存在しておらず、ワタナベの作り出した虚構の中でのみ生きています。いつしか、キズキの死以降、不安定な心の状態で生きているワタナベの中に突撃隊が生まれて、それがまるで現実でワタナベと関わっているかのように、ワタナベが錯覚しているというのが理論だったと思います。
なにかのはずみで、ワタナベにはもう突撃隊は必要なくなり、急に彼の心から消えてしまった、なんてことも考えれなくはありませんよね。
なんだかロマンのある理論だなと思ったので、ここに書きました。

それでは、このへんで!

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