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「王さまってどんな人?」

2022年11月20日(日)は現在代務体制の京葉中部教会で応援説教に行きました。なので本日は京葉中部教会で語った説教原稿を公開いたします。

聖書箇所は以下のとおりです。
旧約聖書:サムエル記上8章1-22節、サムエル記下5章1-5節
新約聖書:ルカによる福音書23章35-43節

 皆さんは「王さま」と聞いてどんな人をイメージするでしょうか。私たちは子どもの頃絵本を通していろんな王さまのことを知る機会を持つのかもしれません。例えば王さまが出てくる有名な絵本の一つにアンデルセンという人の書いた「はだかの王様」があります。そこに登場する王さまは身の回りに批判者や反対者がいないために本当の自分がわかっていない哀れな権力者として描かれており、アンデルセンならでは社会風刺が効いています。私たちはいま日本に住んでおりこの国には長らく王さまがいませんから「王さま」がどんなものなのか。それは良い存在なのか悪い存在なのかイメージしづらいかもしれません。しかし今日朗読されたサムエル記の時代、預言者サムエルに王を求めたイスラエルの人々には王さまに求める役割がはっきりとありました。イスラエルの長老全員が集まりサムエルにこう言っています。「ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」イスラエルの人々が期待していた王さまの役割とは賄賂をくれる人やお友達やお仲間に甘い人間ではなく「裁く人」、つまり物事を偏りなく公正に判断する人だったんです。大岡越前の「大岡裁き」みたいなものと言えば一定の年齢以上の方はお分かりですね。

 預言者サムエルは主なる神を畏れる人物であり、主の前に正しく生きていました。でも父親が素晴らしいからと言って子どもも同じように育つとは限らないのがこの世の定めです。サムエルの2人の息子は彼の後継者として裁きを行いますが、彼らは「父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂をとって裁きを曲げた」(8章3節)と記されています。だからイスラエルの人々は「もうあのバカ息子たちはダメだ。我慢できません。不正を行う人物ではなく正しい裁きを行う王を立ててください。」そういう風にお願いするのです。イスラエルの民の願いはもっともなように感じますね。でも彼らの言い分がサムエルの目には悪と映りました。なぜでしょう。息子のことなのでサムエルの目が曇っていたのでしょうか。どうやら違うようです。主なる神がサムエルにこう語ります。「彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」サムエルの息子たちも悪でしたが、どうやらイスラエルの人々の方も負けず劣らずの悪だったようです。

 サムエルは神さまの言葉を聞き、イスラエルの人々の要求に従って王を立てました。しかし民衆が期待する王さまの役割と実際の王さまの役割にはギャップがあります。サムエルは王さまの役割、権能として男を徴用して軍隊を招集する力、女たちに戦争協力させる力、収穫物や人材、家畜といった財産を没収する力、すべての人間を王の奴隷とする力があることを告げたのです。サムエルは「その日、あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてくださらない。」とまで言いましたが、人間というのは都合の悪い言葉は耳に入らないという得意技があるんですね。イスラエルの民はサムエルの警告を聞き入れず自分たちの王さまを立ててもらいました。

 サムエル記にはそうやって王さまとなったのがサウルという人物であったと記されています。しかしこの王さまは2年間で王位を終えてしまい、その後ダビデという人物が王さまとなり40年間王位にありました。サムエル記の特徴はサウルが悪い王さまで、その後のダビデは良い王さまだという構図で書かれていることです。この書物が親ダビデ派/ダビデのファンによって書かれたことが分かります。しかし神の霊感によって執筆された聖書の凄いところはそのようなダビデファンの人たちの意図を超えて神の真理が浮かび上がってくるという点です。どれだけ編集の手で悪い王サウルと良い王ダビデの対比(コントラスト)を描いても、サムエル記って読めば読むほどサウルとダビデの間に違いをほとんど見出せないのです。両者とも主なる神に従うこともあれば主の教えに背いて悪を行うことがあります。そのことを預言者や部下に咎められると、両者とも反省します。でもサムエル記ではなぜかサウルは赦されず死ぬ運命にあり、ダビデは死ぬ運命から免れて赦されるんです。

 皆さんはどうしてだと思いますか?なんで人の妻を寝取りその夫を激戦地に行かせて殺したダビデは赦されて、皆殺しにせよとの神さまの命令に背いたサウルは赦されないのでしょうか。私はこれはダビデが正しい人であってサウルがそうでなかったからという単純な理由では理解できないと確信しています。むしろ人間側に理由があるのではなく神さまの意思に関わってくるように思います。では神の意思とは一体なんなのか。そのことがほのめかされている箇所がサムエル記にあるので読んでみます。まずサムエル記下5章ではいよいよサウルに代わりダビデが王さまになるシーンが描かれていました。そして7章を読むとですね、神さまがダビデの側近である預言者ナタンに語った言葉が出てくるんです。ちょっと省略しながら読みますのでお聞きください。7章8節以下です。


わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。<中略>あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。<中略>わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。

サムエル記下7章8節以下抜粋

 「わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。」この言葉に神さまの思いが見事に表されています。サウルが裁かれダビデが赦されたのは神さまがサウルを通して王となる人間の弱さや悪、罪を学ばれたからです。「どれだけ油注いで祝福してあげても、人間は最初は謙遜だけどすぐに高慢になって主の道を外れてしまう。その度にわたしの慈しみを取り去ってはだれも王としての職務を全うできない、だからダビデ以後は間違いを犯しても慈しみを取り去ることはしないでおこう。」そのような神の深い愛があったのです。人間に何か理由があったのではなく神さまがサウルを通して改めて人間の愚かさや弱さを学ばれました。神さまが人間の悪を学びより優しく寛大になったのです。人間に対する神さまの寛大さ、慈しみが増していく結果としてダビデの一族は主なる神の祝福の中を歩むことができました。

 ですからサウル王にせよダビデ王にせよソロモン王にせよ、彼らは生涯良い王さま、正しい王さまだったわけではなく預言者サムエルを通して告げられた主の言葉通りに民を泣かせる王さまとしての一面を持っていました。サウルもダビデもソロモンも、強力なリーダーシップを発揮して他国との戦争に勝利し領土を広げた王さまでした。それは一般的な視点で見れば「優れた王さまだった」ということになるかもしれません。でも果たしてその王さまの下で人々は豊かさや幸せを手に入れて、平和に生きることができたのでしょうか。戦争のたびに一家の働き手は戦場に赴き、どの家庭にも徴兵され戦場で命を落とした家族がいたことでしょう。今のロシアも一緒です。そして国家が非常事態になるとアジア・太平洋戦争下の日本のようにあらゆる財産が没収され、国民総動員体制で戦争協力を強いられたのです。戦争に勝ち領土が拡大するにつれてその国に住む人々の心は平安に満たされていたのでしょうか。いやむしろ「あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。」との神さまの言葉が実現したのではないでしょうか。多くの人が大事な人や土地や物を失い嘆き悲しんだのです。

 人間が求める王さまは結局民を不幸せにします。人間の王さまが民に平和をもたらすことはありません。では一体どんな方がイスラエルの、そして世界の王として君臨すべきなのでしょう。聖書はイスラエルの人々の真の王さまは人間ではなく神さまだと言います。サムエル記上8章7節に「彼ら(イスラエル)の上にわたし(神)が王として君臨することを退けているのだ」とありました。本来は神さまが王さまとして君臨するはずなのに、イスラエルの人々がエジプトから導かれてから今日に至るまで他の神々に仕えているために、神はイスラエルの王として君臨せずに彼らの上に人間を王として君臨させました。そしてその王は自らの権能によって人々を奴隷として扱ったのです。

 しかし王なる神さまは民を奴隷にする人間の王さまが君臨し、「自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ」(8章8節)状態をかわいそうに思い、この世界にイエス・キリストを派遣します。イエスは神から授かった権能によって様々な奇跡といやしを行いました。人々はイエスを見て「この方こそダビデの子、わたしたちに与えられた王なのだ」と思い担ごうとしましたが、イエスは群衆が望むような人間の王となることを拒否します。イスラエルの都エルサレムに入城されるときにも、立派な軍馬ではなくまだだれも乗ったことのない小さな子ろばに乗りました。そしてイエスはエルサレムで逮捕され、されるがままに十字架へとつけられます。今日のルカ福音書の朗読部分の最初で民衆は、立ってイエスを見つめています。その眼差しは十字架につけられたイエスに対する悲しみや哀れみによるのではなく、侮蔑や怒りに満ちています。イエスの頭の上には侮辱の意味で「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられました。イエスの服は剥ぎ取られ、侮辱され、ののしられて殺されました。このようなイエスの姿こそ真の王の姿だと聖書は告げるのです。しかし一体このイエスのどこに王としての姿があるのでしょうか。

 私は世界の王としてのイエスの姿が今日のルカ福音書朗読の直前、第23章34節に凝縮されていると思っています。23章34節「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」。これは過ちを犯す人間の罪の赦しを求めて神に執り成すイエスの祈りです。私たちは間違いを犯すことがあります。さらに時として自分は間違ってなんかいない、むしろ正しいことをしているのだと思い込んで取り返しのつかない大きな過ちを犯すことがあります。そもそも悪いことをしていると思っていない、自分が何をしているか知らないで犯す過ちほど容赦がなく深刻です。私たちの誰もが意図せずに誰かを傷つけ、例えそれに気付いて謝ったとしても償いきれないくらいの大きな過ちを犯してしまうことがあります。

 もしも王としてのイエスがかつてイスラエルの民が求めた「裁き人」としての王ならば、私たちが知らず知らずに犯している過ちや罪に従って正しく裁き、私たちは滅ぼされてしまうことでしょう。しかし王であるイエスはそのような裁き人ではありません。イエスは何をしているのか知らない私たちが犯す罪のために神に向かって赦しを祈ってくださる方です。これが聖書の記す王なるキリスト・イエスの姿です。

 私たちが償いきれないような大きな罪を犯してもなお生き続けることができるのは、王なるキリスト・イエスの執り成しの祈りがあるからです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエスと共に十字架につけられた犯罪人の一人、死刑に処せられるほどの重罪を犯した一人の人間はイエスの祈りを聞き、自分の罪を執り成してくださるこの方こそ真の王であるとの信仰に導かれて「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。彼はイエスから「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われます。この犯罪人がこれまで犯した全ての罪、強盗や傷害といった自分が自覚している罪から自覚せずに犯した大きな罪すらもイエスの執り成しによって赦されるのだという事実に目覚めたこの犯罪人はもうすでにイエスと共に楽園にいるのです。私たちが知らないままに犯す過ち、私たちが到底償いきれないような大きな罪に対して、その赦しを神に執り成してくださる真の王キリスト・イエスを私たち一人ひとりの心にお迎えし、私たちもイエスとこの犯罪人と共に楽園を生きましょう。

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