見出し画像

【随筆】我慢の女 第一章

「おどっつぁんも俺も姉ちゃんも忙しいんだがら、おめぇが全部やんだがんない!」
当時の福島では女でも自らを「俺」と呼んだ。
私の母が福島弁でそんなことを捲し立てる。
小学校へ上がって間もなくの話だ。
当時の私はそれが当然のことなのだと思っていたし、親に言われたのだから従うのも当然なのだと疑いもせずにそう思っていた。
家族4人分の食事を三食作り、家中の掃除をし、夜には薪を焚いて風呂を沸かす。
当然なのだ。これは私がやらなければならないことなのだ。

家の敷地にあるアパートも我が家が管理している。
その家賃の回収も私の仕事だ。
毎月決まった日に玄関を叩いて回る。
住んでいるのは学生のお兄さん、私が通う小学校の先生、何をしているのかわからない独身の男性。
学生のお兄さんは毎月姉と私の分のお菓子をくれた。
先生は「偉いぞ」と頭を撫でてくれた。
何をしているかわからない男性はいつも怖かった。
学生のお兄さんがくれたお菓子を姉に見せると「あんだは食わねくていいべ!」と、いつも取り上げられてしまう。
見せずに食べてしまっても良かったのかもしれないが、後から姉や母に知られると頭を叩かれてしまうのでやはり毎月律儀に見せるのだ。

父は運送会社へ勤めており、月に何度かしか帰って来なかった。
母はいつも綺麗な服を着て、いつも地域の集まりに顔を出していた。
夜も帰ってくる時もあれば、帰らない時もあった。
姉はいつも綺麗な服を着ており、母に欲しいと強請ねだればたちまち買ってもらっていたのだ。
服も本もノートも鉛筆も消しゴムも。
私はいつも姉からのお下がりの服、半分程使用されたよれよれのノート、小指の第二関節から先くらいの短い鉛筆、ビー玉のような消しゴム。
お下がりでも新しい服は嬉しいし、筆記用具はいくらあっても良いから喜んだ。

中学校へ上がった際には、友人達が学校帰りに甘味処へ寄って帰ろうと誘ってくれたのだが、私はお小遣いをもらっていないので用事があるからといつも断っていた。
別に友人達も気にしていなかったし、嫌がらせを受けるようなことも無かった。
少し羨ましかった。少しだけね。少しだけ。
あんみつを食べながら何を話しているのかな。
家族の夕食を作りながら考える。
私も行きたかったな。行きたいな。寂しいな。
でもしょうがないんだ。
今日も誰も私が作った料理を美味しいとは言ってくれなかった。

同じクラスに格好良い男子がいる。頭も良いし、みんなの人気者。
いつも目が合う気がする。私が見ているだけなんだけど。
好きなのかな。友人達に相談してみると、「告白しちゃいなよ」と言われた。
私なんかと付き合ってくれるかな。付き合うってどういうことなのかな。
姉に相談してみよう。姉は彼氏がいたからきっと教えてくれる。
「そんなの簡単だがら〜!あんだも色気付いで〜!」
冷やかされ馬鹿にされたが、丁寧に教えてくれた。
次の日からドキドキして、まともにその男子の顔を見ることが出来なくなった。いつ言おうか、そう思っているうちに時間だけが過ぎていった。
翌週、姉とその男子が一緒に帰っているのを見た。
私が家に帰ると、姉の部屋にその男子もいるようだった。
姉は綺麗だし器用だし、頭も良いし。しょうがない。

高校に入学してしばらくしてから彼氏が出来た。
とても背が高い、頼もしくて格好良い男性だ。
恥ずかしいが私の全ての初めてはその人にあげた。
家に連れていって母に紹介すると、「あんだみでなのには似合わね!」と言われたが彼は「僕こそ似合いませんよ」と言ってくれた。
姉にも紹介すると愛想笑いをしていたが黙っていた。
後日姉が彼に頻繁に電話をしてきて困っていると彼が教えてくれた。
初めてだ。初めて姉に対して怒りを覚えた。初めて喧嘩をした。姉は全く悪びれてはいなかった。
仙台にある経理の専門学校への進学が決まっていたからそれまでの辛抱だ。
私は家を出ることを決意していた。
これまで考えもしたことも無かった。気付かなかった。もうこの人達の世話なんかしていられない。そう思った。

専門学校へ進学し、私はアパートで一人暮らしをすることになった。
アルバイトも始めた。人とはこんなにも時間を与えられるものなのかと驚いた。
私はそれまで人の世話ばかりしていたし、それが当たり前なのだと思っていたし。出来ないことが悔しかったからそうしてきた。
そんな話を友人達にすると「苦労してきたんだね」と慰めてくれる。
私は苦労してきたんだそうだ。
高校の時に付き合った彼氏とは今も関係は良好で、卒業したら結婚しようという話も出ている。
私は要領が悪いから勉強は大変だったけど、友人達とも遊んで、とても楽しい二年間はあっという間に過ぎていった。

専門学校を卒業して福島に帰るのは嫌だったし、もう田舎へ戻るのも嫌だったから仙台でそのまま就職することにした。
仙台市内でガソリンスタンドを数店舗展開する会社へ経理として入社した。
卒業したら結婚しようと言っていた彼は、彼が就職した先で別の女性と良い関係になり、突然別れを告げられた。
約束していたんだけどな。楽しみにしていたのにな。しょうがない。胸が苦しい。でもしょうがない。

私がいる本社の経理部に、私より六年先輩の店長候補と言われている男性がよく伝票を届けに来ていた。
とても軽い男で女性社員みんなに良い顔をしていた。いつも私にもお菓子を持ってきてくれた。
二年後、私のお腹の中にはその軽い男性の子供が宿っていた。
彼はとても喜んでくれた。泣いて喜んでくれた。私も泣いて喜んだ。
すぐにでも福島へ挨拶に行こうと言ってくれた。
会社に相談し、二人で休みを合わせ久しぶりに帰郷した。
事前に電話で理由を説明していた。もちろん無言で電話を切られた。
父からの第一声は「何処の馬の骨ともわからん奴に娘はやんねぇ!」だった。
本当に言われるんだと少しおかしくなったが、笑っている場合ではない。
彼は必死に両親に頭を下げてくれている。私も隣で並び頭を下げた。下げ続けた。
両親が条件を提示した。
「娘の名字は変えさせねぇ、おめぇが婿さ来い!」
「俺が社長やっから店はおめぇが営業しろ、休みなんか月に一回でいいべ!」
私の家は小さいながら酒屋をやっていた。
「借金あっからそれもおめぇがけぇせ!」
「でねぇど娘はやんね!」

私は彼に別れを告げようと思った。あんまりだ。そして私もこの家とも縁を切ろうと思った。
「わかりました」
彼は笑った。私は泣き崩れた。「この人に一生尽くしていこう」そう決意したのはこの瞬間だ。

彼の実家にも挨拶へ行った。彼の母が猛烈に怒り狂った。
もちろん私の両親にだ。そして婿入りを勝手に決めてきた息子にも猛烈に怒った。
彼は落ち着いて「しょうがねぇべや、こいづど一緒になんにはこれしかがったんだがらや」と言った。
彼の母親も肝の座った人だった。猛烈に怒り狂ったかと思ったら、私を猛烈に歓迎してくれた。彼の兄弟達も話を聞いたにも関わらず歓迎してくれた。本当に温かい人達だ。
結婚式についての両親同士の話し合いでは、彼の母が話を進めてくれたようだ。終始私の両親は発言することすら叶わなかったと聞いた。
結婚式代金の一切は彼の家が出す。それが婿入りの条件だと言った。
結婚式は日本三景の一つに数えられる松島にあるホテルで行った。
私の親戚一同も全て招待した。全て彼の母の主導で滞りなく進んでいった。

結婚式も終わり、新婚旅行も質素に宮城県の温泉地の鳴子温泉で何泊かして福島へ帰った。
それからは目まぐるしい毎日であった。
夫は教わるものも教わらず店の営業や酒の配達。受注の新規開拓。夫は毎日毎日働き詰めであった。
私も店には出ていたが家族の食事を作るため17時には家に戻る。
夫が帰ってくるまで起きて待っていた。夫は帰ってくると食事をしながらウトウトしていた。そんな姿をみていると申し訳なくなって涙が出た。

私のお腹の子が月を十数えたある年の九月、長男が誕生した。
夫は店を一度閉めて駆けつけてくれた。泣いて喜んだ。私も泣いた。
「ありがど!ありがど!」
あまりに何度も大声で言うので、看護婦さんに注意を受けて静かになった。
先生も看護婦さんも笑った。

あの頃は本当に大変で、とにかく時間の流れがとても早く感じた。
私は息子の面倒を見ながら家事をこなし、夫が配達の間は息子を背中におぶって店にも立った。夫は帰ってくると息子を抱っこしながら食事をするが、やはりウトウトして息子を床に落としていた。
私の父は朝から酒を飲み、母は相変わらず地域の集まりに顔を出していた。息子が一歳になった時、朝父が布団で冷たくなっていた。脳卒中だった。
元々味が濃いものが好きで、納豆にも納豆が浮くほど醤油をかけるような人だった。そして大酒飲みだ。
不思議なもので私は悲しかった。一度は心から憎み、縁を切ろうとさえ思った親なのに悲しくて悲しくて仕方がなかった。
それから母の金遣いが更に酷くなった。家に帰って来ず、頻繁に旅行にも出掛けるようになった。いつも同じ男と一緒のようだった。
そんな時、夫は一枚の紙を見せてきた。借金完済の証明書だ。
私は本当に凄い人と一緒になれたのだと思った。その日は息子を寝かせてから二人でビールを飲んだ。

息子が二歳になったある年。私のお腹からもう一人の男の子が誕生した。
二人とも暴れん坊で家も生活もめちゃくちゃになったが、笑顔が溢れる毎日だった。
母にも変化が訪れ、長男の面倒を見てくれるようになった。これは素直にありがたかった。本当に良く面倒をみてくれた。
おかげで夫の配達の手伝いや、これから幼稚園や学校の行事で必要になるであろうということで自動車の免許を取得するため教習所に通うことも出来た。
長男が四歳、次男が二歳と元気にすくすくと育ち、わんぱくな男の子を育てるのは大変ながら毎日笑顔が絶えなかった。
一丁前に兄弟喧嘩をし、兄が弟を泣かせ夫に叱られ長男も泣く。
賑やかだが幸せだった。少しだけうるさかったかな。

そんなある年。憧れていた女の子が誕生した。
男の子も可愛いけど、やっぱり女の子を育ててみたかった。
女の子は成長が早いように感じた。
どんどん豊かになる表情に胸が温かくなるようだった。
母も人が変わったように子供達の面倒を見てくれるようになり、店にも立つようになる。
おかげで家族の時間も増え、旅行のようなものには行くことは出来なかったが楽しげな写真が増えていった。
そういえば、長男、次男、長女と写真の数が減っていったな。
可愛いとか可愛くないとかではなくて、初めての子供とそうでないのでは同じ仕草をするでも感じ方が違うというだけだ。
今のようにスマートフォンで何枚も撮影出来るならば、女の子が一番写真が多かっただろう。フィルムカメラは高いのだ。

それから長男と次男が小学校へ上がり、長女が幼稚園へ入園したある夜。
母が怒鳴り声を上げているのが二階にいた私の耳にも聞こえてきた。
「ほったらおしょすい(そんなに恥ずかしい)車乗ってで、俺はご近所に顔向け出来でぎねぇ!」
夫は借金も完済し、給料も上がっていたのでローンを組んで左ハンドルのホンダアコードを購入していた。
「何も恥ずがしいごど無いでしょう」
夫も怒りを抑えて言うが母は聞く耳を持たない。
「今すぐ売れ!明日売れ!おしょすいごど!」
夫は無言で二階の私達の部屋へ戻る。私も無言で着いて行く。
「もういいだろ」
夫がポツリと呟く。
「親父にもお袋にも楽させて、孫の顔も三人も見せて、借金まで返して、店も綺麗に改装した」
夫が繋ぐ言葉の先を聞くのが怖かった。
「宮城さ行ぐぞ」
次の日の朝に夫がそのことを告げる。
「そんなのは認めねぇ!」と母は怒鳴る。
夫は無言で開店の準備に向かった。
それからも夫は店を開け続けた。それまでは遅くまで働いていたが、19時には店を閉めて家に戻ってきて引越しの準備を進めた。
子供達も何かおかしい状況を察するらしい。
特に長男は「婆ちゃんのところに残る!」と言って聞かなかった。
その度に私は悲しいのを、苦しいのを堪えて「わがまま言わないの!そんなごど出来るわげないでしょ!」と叱った。長男は更に泣いた。
宮城へ出発の日。
多くの荷物は夫の実家がトラックを出してくれたのでそれに積むことが出来た。私達は最低限の荷物を積んで車に乗り込む。
母は見送りに出てきた。長男は車から飛び出し、母に抱きつき最後まで「やっぱり婆ちゃんと暮らす!」と泣いている。
夫が車から降りて母に向き合い、「これまでお世話になりました。お元気で」と笑顔で挨拶し、長男を引き剥がして車に乗せる。
「俺が悪がった!今がらでも戻ってくれねべが!?」
母が許しを乞うが夫は無言で車に戻りアクセルを踏んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?