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ダイエット幻想ーやせること、愛されること 磯野真穂

 痩せている方がかわいい、かっこいい。いつからそう感じるようになったんだろう。

 磯野真穂の「ダイエット幻想 やせること、愛されること」(ちくまプリマー新書)は、周囲からの評価に囚われて、ダイエットする人たちの話だ。

 この本では、ダイエットの前に「自分らしさ」には他人が必要という矛盾から話が始まる。「他人のことを気にせずに自分の道を進んでます」という顔をしながらも、「他人に評価される能力や特性を身につける」ことが、「自分らしさ」として認められる。あまりにも奇抜すぎるファッションは誰にも理解されないし、無難にみんながしていることをしても注目されない。自分らしさとは、完全に自分だけの道を行くわけでもなく、世間一般の常識に合わせすぎない、絶妙なバランスの上に成り立っている。
 この不思議な「自分らしさ」が重視される世の中。そこで起こる過激なダイエット競争、そして人間関係のあり方までをカバーした射程の長い本だ。

 ではまず、ダイエットの話に入ろう。数字にとらわれて、カロリー計算しながらご飯を食べても美味しくない。理想の体重を維持するために、一日中糖質のことを考えるのはしんどいに決まっている。それでも人(多くは女性)はダイエットをする。なぜだろうか。

 「自分らしさ」を大切にするこの社会では、どんな体型であっても、ありのままの自分らしくあることが1番だと言われる。でも、結局自分らしさを出すためには他人との比較が必要で、そこで引き合いに出されるのは、テレビやSNSで見かける人たち。そこから始まるのは、トレンドの体型を追いかける終わりのないダイエット競争。こうして多くの女性が競争に駆り立てられる。この話は体型に限らず、ファッションやメイクにも当てはまると思う。この本では具体的な女性のエピソードから、競争し合うように作られたこの社会が女性を「痩せて可愛らしく選ばれる」存在になるようにを強制していることがよく分かる。

 「自分らしさ」を追い求め、流行と周囲の視線を自分の中に取り込む。努力して体型を維持し、トレンドに乗っかって生きる。華やかに自分らしく生きているようで、実はいつも他人の評価を意識して生きている。自分らしく生きることが、いつのまにか反転して他人と比べ、競い合うようになってしまう。しかも、日本で女性に求められる「自分らしさ」が、可愛らしくて受け身な存在であることなのがさらに問題を厄介にしている。

 筆者はこのダイエットのあり方から、人間関係についても踏み込んで考える。ここでSNSのタグ付けを例に出し、人をタグの寄せ集めとして扱う人間関係を「タグ付けする関係」と名付けた。タグとは、例えば「フォロワーが1万人以上」や「BMIが20以下」、「年収1000万円」といったものだ。SNSやマッチングアプリで繋がる人の多くは、このタグによって選抜される。
 このタグを集めたものがある意味「自分らしさ」とも言える。でも、より良いタグを身につけるために比較して競い始めると、命を落としかねないダイエット競争へと発展する。

 どうしたら、この競争から抜け出せるのだろう。筆者の提案は、競争から抜け出す方法ではない。そもそも「自分らしさ」の中に他人の評価が入っているのだから、完全に競争から逃げることはできない。それはTwitterがしんどいから、 Instagramを始めるようなものだと思う。結局、別ルールの自分らしさ競争に巻き込まれる。

 そこで提案されるのが、「タグ付け」ではなく「ラインを引く」ことだ。
簡単に言えば、タグ付けがその瞬間の数字や役割に注目する、言わば「点」なら、ラインを引くとは、これまで生きて様々な経験をしてきた連続体として考える、「線」の視点だ。
 自分自身を明日の体重計で評価するのではなく、これまでの食の経験やそれによって培われた食べ物の好みを持った人間としてみる。どんな人とどんなものを食べてきたかを考える。そうすることで、カロリーの数字を食べる生活から、丁寧に自分らしさを考える生活に近づくかもしれない。タグ付けする関係(例えばSNSやマッチングアプリ)であっても、そこから共に過ごしていくことで、お互いに線を描ける関係の可能性が開かれている。


と、ここまで何とかまとめて、分かるのだけどしっくりこない。
自分でもまとまっていないけれど、雑感を載せよう。


 この本の最後の主張は「点から線へ」なのだけど、具体性があまりない。
僕が線のイメージをできるのは、障害児を発達的にみる目を養ってきたからだ。後半の議論は僕の学んできた心理学の発達的視点を感じながら読んだ。
 そもそも、そういう理想的な視点がそもそも描けないこともある。タグ付け関係からもう一歩踏み込んだ関係を探しに行くことを提案していたが、例えば家族はなかなか離れにくい。たとえ職場にセクハラ発言をする同僚がいるからといって、簡単に仕事を辞めるわけにはいかない。痩せることをパートナーから求められたとき、線としての関係の可能性をどう描いたらいいのだろう。
 自分自身が点から線の意識を持っていても、家族、同僚、この社会からはタグの寄せ集めとして眼差される。痩せて可愛らしく弁えた女性を求める力はなかなか弱まらない。強固なタグ付けを外す手段は、最終章の議論から読み取るに、偶然性や不確定性に頼っている。

 これははっきり言って、宮野真生子氏の影響が強すぎると思う。宮野氏との共著「急に具合が悪くなる」(晶文社)を同時期に出版したこともあるが、前半部は筆者の専門(文化人類学)を丁寧に解説して分かりやすかったのに、後半は宮野氏の専門(哲学)を中心に据えているので、議論が突然薄まったように感じる。これがまとめていてしっくりこなかった原因だと思う。前半の豊富な食のエピソードと文化人類学的な解釈がとても明快だった分、後半失速した感が否めない。

 とまあ、後半はネガティブに書いてしまったけれど、前半部の「自分らしさ」とその競争、日本の女性特有の痩せ問題については、とても分かりやすく読みやすい本だった。ただ個人的に、偶然性について本を読んだり考えたりしていたから、この本の後半にひっかかったのだろう。

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