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「完璧な文章などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。」

今日もダラダラととりとめのない1,600字。

タイトルは、押しも押されぬ人気作家、村上春樹氏の処女作である「風の歌を聴け」、その初っ端の一節です。

Noteもそうですが、メルマガやブログ、チャットにメールなど、様々な媒体で「文章」を書いてきました。文章でお金を頂くという意味では、「代書屋」もそういった職業の一つであり、できれば「完璧な文章」を書きたいなと思うところもあります。

しかし、「完璧な文章」などといったものは存在しない。確かにその通りだと思います。

「完璧な文章」、それは「完璧な言葉」と言い換えることができます。

「あなたは、魚を食べたいと思っていますか?」

私は「文法」のプロではありませんが、この文章(言葉)は、いわゆる主語、述語、目的語、助詞などの使い方に特に問題はないはずです。

しかし、「問題はない」と「完璧である」ことは、全く異なりますよね。

相手が、3歳の幼児だったら?

「ぼく、とと(魚)食べる?」

こちらのほうが、より「相手に伝わりやすい」言葉になるはずです。

これは、エリクソニアンにとって重要な技法のひとつ、「(可能な限り全て)相手に合わせる」という考え方です。

「相手に合わせる」というのは、ロジャリアン(ロジャース派)の、受容・共感と似ていると思われる方もいるかもしれません。

違いとしては、ロジャリアンが「あいづち」「頷き」など、「クライエントの発した言葉」に対して「受容・共感」するのに対して、エリクソニアンは、「クライエントの全てに合わせる」ことを目標とするところでしょうか。

息遣い、表情、感情、言葉遣い(これは敬語表現などで、英語と日本語に大きな違いがあるため難しい部分もありますが)、好きな音楽、好きな食事、好きなブランド…

仲が良いことを「息が合う」と言いますが、まさに「呼吸(息)を合わせるところから、全てを合わせていく」。これが、エリクソニアンの受容・共感です。

クライエントが若く、彼らが句読点を使わない文化を持っているなら、エリクソニアンも句読点は使いません。

それは、同世代には読みづらい文章になるかもしれませんが、画面の向こうの「読み手(クライエント)」に合わせるのがエリクソニアンのアプローチであり、第三者が読みやすいかどうかは問題にしていないのです。

また「相手に合わせる」という意味では、「相手の気持ちを考える」ことも大事ですよね。

私は一つ前のNoteで「考えて下さい」と書いてしまいました(現在は修正済み)。

この「考えて下さい」という言葉は、一般的に使われている言葉として、何も問題はありませんよね。

しかし、読んだ側、受け取る側に「抵抗」、つまり「NO」や「不快感」を生じさせる可能性が高くなります。

知らない人に「指示・命令」されて嬉しい人はいないし、この言葉には「選択の余地がない」からです。

受け手の「抵抗」を回避するためには、「考えて頂けると嬉しいのですが…」や「私は思うのですが」など、「指示・命令」をせず、受け取る側(読み手)に「選択権を持たせる」か、「自発的に考える(暗示)」ことが必要になります。

これは、私たちエリクソニアン(エリクソン派)のカウンセラー・セラピストにとって、極めて重要な技法であり、ときに「文章的(文法的)正しさ」よりも「抵抗回避」の方が重要だと考えます。

言葉がコミュニケーションである以上、受け取る側に立って考えられた言葉が、発した側にとってもメリットが大きいはずですよね。

「完璧な文章」とは、それは(読み手)自身のことを「完璧に知っている」ことを絶対条件として生まれるものであり、それは自己理解・他者理解の極致とも言える、「存在しない」文章です。

村上春樹氏は、後年ベストセラーとなった「ノルウェイの森」で、文章についてこう続けます。

結局のところ、文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。

「完璧な文章の不存在」。それはとりもなおさず、私たちの「不完全性」のゆえに。

そういうオチでいかがでしょうか。

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