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「淋しい」を許さない人々

自分が幸せになることを優先することを許されず、他人に合わせる暮らしに慣れざるを得なかった人も、私の所まで辿り着く方には少なくない(むしろ多い)と感じます。

自分を許すことは、今までしてこなかった人にはとても難しい。

自分を癒すこと、許すこと、満たすことにようやく専念出来た今、本来の私がどんな人で、どんなことが私を喜ばすのか答えが出ません。

たまに、こういうことで躓くこともよくある。
他人になら優しい言葉の1つも掛けるのに、自分には出来ない。

教わってこなかった。と言えばまあそうなのです。

不器用って、やーね。

では私に優先させたチャッカリ野郎どもはどうしていたか?
そいつを見習えば良いのではないか?

とも思うけれど、何故か真似たくはない。。

みんなどうしてるの?

少しずつ、ちょっとずつ、楽にはなってきました。

自分を整理するように、自宅も片付けが進んで、薬も減ってきました。

ネット文化が進んで多様化し、新しい知人も増えました。

そんな中で、恐ろしい夢を見てから動けなくなって、ネット活動が激減。

自分と向き合い、自分を癒すことに専念しています。

全ての活動をほっぽり出しても、私は私を癒す。

私は何が好き?
私は何をしたら喜ぶ?

人払いされたように、何故かみんな離れていった。

淋しいけれど、今はそういう期間なのでしょう。

私は今、相変わらずコツコツ不用品を処分しながらモノが有りすぎる自宅をコツコツ元の広さに戻しながら、長襦袢を直すチャレンジをしています。

働き盛りと呼ばれる期間を病気で棒に振り、その期間は育児期間とも重なり、反抗したい放題の子供は執拗に仕事出来ない私を責めた。
元夫も解っていて私が子供の頃いじめられていた時によく言われたことを子供の前でも詰った。

自分と向き合っていて、過去に辛かったことを誰にも言えず、子供の頃のままのプライドから言わずにきたことが、誰にも理解されず共感もされなくて大人になれていないことに気づきました。

見ないようにしていたと言っても良いかもしれません。

また、自分のやりたいことを先伸ばしして、せっかく手直しの練習が出来そうな着物を幾つも買ったのに、着物しか直せていませんでした。

着物が直せたのだから、同じくらいの範囲なら長襦袢も直せる。

今、縫っている長襦袢は直した着物と着るために少しずつ縫っています。

少しずつ、辛いことや封印してきた過去の話、現在の話もこうして言語化出来たら、私自身の癒しも進むかもしれません。

自分を幸せにすることには頑張ろう。
不器用でも、私だけは私を見放さない。

これが不慣れ過ぎて、続けられるようで続けることが案外しんどいのは意外です。
一番楽だろうと思っていたのに、努力が要るのです。

こうして書けるようになったから、少しは進んでいます。

今後もこうして躓くことがあるでしょう。

その記録も兼ねて、書くことを続けられたらと思います。

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