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原稿料提示は、執筆前か、後か。

ちょっとびっくりするような原稿料を提示された。

過去に請け負った仕事の中でも、もしかしたら最低ランクかもしれない。
しかも、そこそこに名の知れた出版社であること、肝心の原稿はとっくに提出済み(1年前に)であることがポイントだ。

最初からいろいろケチがついた仕事だった。
「ケチがついた」なんて言葉は、品がないうえに、請け負った自分自身が悲しくなるから、これまでほとんど使ったはない言葉だけど、仕事によってはよぎることもある。

なんとなく、「これはちょっと……」と直感的に得た違和感って、大抵当たるよね。しかもその違和感は、数字としての待遇面ではなく、本質的な仕事のやり方、本のつくり方に対する疑問だったりする。

「これはちょっと……、あまり質の高い本にはならなさそう」
「これでどうやって、本にしろと?」

そんな違和感を抱いた仕事の場合、「やってみたらサイコーだった!」という結末にはなりにくい。大抵が、「ああ、あの時、自分の直感に従ってやめておけばよかった……」と肩を落とすパターン。

だが、ライターたる者、頂いたお仕事を「いやです!」と突っ返すのは言語道断。「お仕事をいただけただけで、ありがたい」スタンスでやるものという教え(ライター学校時代に叩きいこまれた)が身に沁みついている私。。。
出版社や編集者だって、好きな仕事ばかりできているわけじゃあない。いろいろなしがらみや、クリアすべき数字やノルマがあって、諸々の事情から、本づくりをしなくちゃいけないこともある。
それが分かるからこそ、基本的に条件などは事前提示せず、これまでも性善説で仕事を請け負ってきたけれど、「ちょっと、これは……、言ってもいいよね?」レベル案件。

まあ、結局は「他の仕事でカバーします!」というフォローを頂戴したので、これはこれで、もうしょうがない、良しとしたけれど。なぜこの数字になったのか、事情も何となく察しているし。

な~んてこと、本来はこんなところにぶちまけずに、ライター仲間がいれば酒の肴として愚痴れるんだろうけれど、相変わらず仲間もおらず、Netflixドラマを見ながら「ルフィはいいな、仲間がいて」と羨んでいる身としては、仕方なく夫に愚痴るわけだが、至極まっとうな企業勤めサラリーマンである夫からは、「そんな契約書が一番最後にきてNOと言えない仕事なんて最初から断ればいいじゃん、断るべきだ」と正論が降ってくる。
「ま、そっすよね、それが世間一般の常識ですが、出版業界は違いまして……」とゴニョコニョ言うことになる。

でも、最近の若い編集者は少し違うのかな?
昔からご縁のある編集者で、仕事が始まる前に報酬等の数字を示してくる人はいないけれど、新たにご縁をいただいた編集者(比較的若い層が多い)は、「条件ですが、この辺りではどうでしょう」とか、「原稿料など、どのあたりをご希望ですか、ご希望に添えるかわかりませんが、話し合いを」などと言ってくれることが、最近続いている。

なんでだ? 世代の違い? 出版業界の慣習が変わってきた? 私が年取ってきたから? あとになってもめたくない?

まあ、なんにしろ、ある程度の相場観を共有できるのはいいよね。
本をつくるために何カ月も費やして、その間雑誌の仕事もストップして、キャッシュフローが滞って四苦八苦したのに、刊行が1年間以上伸びて、すっかり忘れ切った頃に、「本できました」とチョロっと契約書が送られてきたときの衝撃!に比べれば、はるかに心臓に良い。

でも、一番の「残念感」は、報酬としての数字以上に、ライターとしての扱いが、「ああ、所詮はライターなんてこんな扱いをしてもいいと思っているんだな」と気づいたときの寂しさかな。だから数字に驚く時というのは、大抵仕事をしている間も、それ以外の点で違和感が付きまとうもの。
具体的には言えないけれど、なんとなくその場にいても、いなくても一緒感? 著者や編集者はいなくては本はできないけれど、ライターは仕方なく使っている的なポジション……。
そんな雰囲気を感じ取ってしまう瞬間は、言いようもなく悲しくなるよね。

たしかにライターのポジションは、編集者や著者に比べれば、二番手、三番手、というかむしろ表に出ない黒子でしかないけれど、その本に関わっている間は、誰よりもその本のことを考えて頑張ってきたんだけどなぁ……と。

まあ、その虚しさを脱するためには、やはり自分の能力を上げ、代替不可能なポジションまで、切磋琢磨するしかないんだけどね。

ま、仕事を前に、散々昼寝してきた人間が起きぬけに言うのもナンですけどね、長々と「大様の耳は、ロバの耳」……。


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