落語の話

「粗忽長屋」の噺

ぷらすです、こんばんは。
今回は、古典落語の枠を超え「哲学」の域に達した噺。
「粗忽長屋」の話です。

「粗忽」っていうのは、今風に言えば「間抜け」とか「おっちょこちょい」みたいな意味ですね。
で、この噺は短い噺だし、そんなに登場人物も多くはありません。
落語には、おっちょこちょいが何かしようとして失敗する『粗忽噺』というジャンルがあるらしいんですが、三代目 柳家小さん(1857~1930)は、そんな粗忽噺の中でも、この「粗忽長屋」が一番難しいと言っていたそうです。

あらすじ

「粗忽者」ばかりが住む『粗忽長屋』の住民で、浅草観音詣でに来た八五郎は、道端に人だかりを見つけます。
気になった八五郎は、人だかりの後方にいる人たちに「何があったんです?」と訊くけれど、誰も彼も「知らない」「分からない」ばかり。
こうなれば自分の目で確かめるしかないと、八五郎は人ごみの股の下を潜ってなんとか最前列まで到着します。

そこに立っていたのは役人で、話を聞くと「身元不明の行き倒れ」が出たので、集まった人に死体を見せて、知り合いを探しているのだと言う。
八五郎はその死体を見てビックリ。
「こいつは、自分の兄弟分の熊五郎で、引き取ってくれる身寄りはない」と言います。
それを聞いた役人が、「だったら知り合いのお前が遺体を引き取ってくれ」というと八五郎、
「いやいや、だったら本人を呼んできます」という。

「本人?」と役人が聞くと、八五郎。
あっしはコイツに今朝長屋で会っている。コイツはボーっとした野郎だから自分が死んだのにも気づかずに家まで帰ってきたに違いない。
だから、ひとっぱしり長屋に帰って、本人を連れてくると。
役人が、今朝会ったならその男は別人だ。この遺体は昨日からここにあったと言っても聞く耳を持たず、長屋に飛んで帰ります。

八五郎が長屋に戻ると、熊五郎が家でぼーっとしている。
昨夜吉原で飲んだ酒とイカに当たってしまったのか、今朝はどうにも調子が悪いという熊五郎に、「お前は浅草観音の前の道端で死んでいた。この目で見たんだから間違いない」と八五郎。
最初は否定していた熊五郎ですが、八五郎に言われるうちにだんだん自分が死んだような気がしてくる。

とにかく、死体を引取りに行こうと八五郎に連れられて浅草観音まで行くと、そこには死体がある。顔を見るとどうも別人のような気がするけれど、兄弟分の八五郎にお前の死体に間違いないと言われるうち、「これは確かに俺だ」と思い込み、死体を抱き上げて泣く熊五郎。
ところが、ふと「どうにも分からなくなった」と。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」
というオチ。

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もちろん死体は全くの別人で、粗忽者の八五郎が、着物の柄が似ているから熊五郎に違いないと思い込み、同じく粗忽者の熊五郎は八五郎に色々言われるうちに死体を自分だと思い込んじゃうというという、なんとも間抜けな噺なんですが、でも、最後の熊五郎のセリフがなんともSF的というか、哲学的というか、仏教的というか。
ゲラゲラ笑いながらも、「あれ?」となっちゃうわけです。

で、この噺が難しいのは誰の「視点」で語るかが噺の肝になるからなんじゃないかなと思います。

他の人たちは、最初から死体が熊五郎じゃないことは分かっています。
つまり、野次馬や役人の視点はイコール観客の視点なので、落語家さんは、死体が熊五郎と信じて疑わない八五郎と、兄貴分の八五郎にお前は死んだと言われて混乱し、最後には自分が死んだと思い込んじゃう熊五郎の視点で演じなくてはならないわけです。
その上で、役人の視点で二人にツッコミを入れて、二人の視点になりかけた観客を引き戻さないといけないんですね。
じゃないと、オカルト話になっちゃうので。

二人の視点で話を進めつつ、冷静な役人、イコール観客の視点でツッコミを入れて笑いに持っていく。どちらか片方に傾くことなく、上手くバランスを取らなくてはいけないのが、この噺の難しさなんじゃないかなーと、僕はそんな風に思う次第です。
まぁ、素人考えなので間違ってるかもですが。

ではでは。

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