映画の話

「ぼくのエリ 200歳の少女」

#映画

ぷらすです、こんばんは。

今回の映画は、トーマス・アルフレッドソン監督のスウェーデン映画

「ぼくのエリ 200歳の少女」です。


の前に。

今回は全編ネタバレします。ご注意ください。



さてさて、この「ぼくのエリ 200歳の少女」というタイトルなんですが……


これ嘘です。


これ多分、映画本編を観ても分からないと思うので書きますと、

そもそも、エリは少女ではありません。

映画では説明されてないのですが、原作小説「MORSE -モールス-」によるとエリは200年前ある土地の領主だった吸血鬼に去勢されたうえ、吸血鬼にされた「男の子」で、「ぼくのエリ~」ではエリの着替えを覗いてしまったオスカーがエリの股間の去勢の傷跡を見て、エリが女の子ではないという事実に気づきます。

劇中でも「もし、私が女の子じゃなくても好きだと思う?」とか「私は普通じゃないから」とか、エリの正体を匂わせるセリフが要所要所に出てきますが、オスカーも観客もエリが吸血鬼であることを指しているんだろうと思う作りになっています。が、エリの股間のアップが一瞬映る事で、エリの言葉の真の意実に気づくという仕掛けなのです。

ところが日本では、映画、DVD共に股間部分にボカシがかけられているので、―― 実はエリは男の子 ――という設定が分からず、エロ坊主のオスカーが「エリの着替えを覗いたら大事なところが見えちゃった。キャッ☆」みたいになっちゃってて、ストーリー全体の意味合いやニュアンスがガラっと変わってしまうのです。

これはもう、ミスリードとかそんなカワイイものじゃなくて、完全な改悪です。しかもかなり悪質な。

まぁ、色々調べてみると、日本配給元は何とかボカシなしでの放映を求めてかなり粘ったそうですから、あの邦題も苦肉の策だったのかもしれませんが、それにしてもだし、なにより、

何やってんだ映倫テメーコノヤロウ! と。

確かに今のご時世的に、きわどいシーンではありますが、性器が写っているわけでもなく、本筋に関わる重要なシーンが、ボカシの存在よって逆にただのいかがわしいシーンになったんだから本末転倒だし何より、映画の内容やテーマを「外部の人間」が変えてしまったわけで、これはもう大問題ですよ。

ほんと、もう、アホかと。(怒

閑話休題。

ストックホルムのアパートに母親とふたり暮らしのオスカーはチビで痩せっぽちで、自分をいじめる同級生に仕返しする度胸もなく、夜になると隠し持ったナイフでアパート前の広場にある木を刺しながら同級生に復讐する妄想をして憂さを晴らす毎日を送っています。そんなある夜、オスカーの住むアパートに、同い年くらいの謎めいた美少女と父親らしき男が引っ越してくるところから物語は始まります。

彼らの引越しと時を同じくして、被害者が逆さ吊りにされ血を抜かれるという殺人事件が起こります。それは引っ越してきた男が、実は吸血鬼のエリの為に血液を調達するために行った犯行でした。そして、この男ホーカンとエリは親子ではなく、ホーカンはエリに恋をしている小児性愛者で、吸血鬼だけれど子どもゆえ非力で、バレないように「食料」を調達できないエリと共に各地を転々と移りながら殺人を繰り返しているわけです。

エリとオスカーは次第に心を通わせるようになり、オスカーはエリに恋心を抱くようになりますが、時を同じくして同級生によるオスカーへのいじめも次第にエスカレートしていき、エリはオスカーに「私も手伝うから」とやり返すように後押しします。その後、いじめっ子を棒で殴り怪我を負わせるオスカー。母親は狼狽し、学校では問題児扱いされますが彼自身はいじめっ子に反撃出来た事に自信を持ちます。

そんなある日、ホーカンは犯行に失敗し、身元を分からなくするため用意した硫酸を自ら浴びますが一命を取り留め、病院に収容された彼の前に現れたエリに自分の血を吸わせた(吸ってもらった?)あと、自ら命を絶ちます。調達係であるホーカンを失ったエリは自力で「食料」を調達せざるを得ない状況になるのです。

エリを女の子だと思っているオスカーは次第にエリに恋心を抱くようになります。ホーカンや母親の手前、大っぴらに会えない二人は、夜、部屋の壁を使ってモールス信号で会話をしたり(部屋が隣同士だから)、こっそりデートをしたりして距離を次第に縮めていくのですが、ある事がきっかけでエリが吸血鬼かもしれないと気づいたオスカーは一旦はエリを拒絶します。

その夜母親が仕事で不在のオスカーの家を訪ねるエリ。「入っていい?」と訊ねるエリに「壁なんかないよ」と茶化すように言い、許可を出さずに首の動きだけで入るように促すオスカー。オスカーはこの時、まだエリが本当に吸血鬼かどうか半信半疑なので確かめる意図もあり、またエリの秘密を握ったという優越感や、ちょっと困らせてやろうという意地悪な気持ちもあったのかもしれません。一方のエリは吸血鬼なので招かれない家や部屋には入れない。しかし、ここでエリはあえて促されるままに部屋に入ります。するとエリの体中から血が噴き出し、慌てたオスカーは「入っていいから!」とエリを抱きしめ、血で汚れた服を着替えるエリの着替えを見てしまい…とここで上記のシーンになるわけです。

この映画の原題は、スウェーデン語で 「Låt den rätte komma in」英語では 「Let the Right One In」で「正しき者を招き入れよ」という意味だそうで、これはもちろん、吸血鬼は招かれないと家や部屋に入れないという伝承が元になっているわけですが、本作を観終わった後だと、「(あなたにとって)正しき者を~」もしくは「正しき者を(あなたの中に)~」という意味にも取れます。

つまり、オスカーはこの時、自分の秘密の全てを(命がけで)明かしたエリを受け入れた=招き入れたのだと思います。

その後、エリは吸血現場を目撃された男に殺されそうになりますが、オスカーの助けで返り討ちにし、街を去る事をオスカーに告げて消えます。

再び一人ぼっちになったオスカーは、一旦は撃退したいじめっ子(とその兄)の策略にハマり、殺されそうになりますが、駆けつけたエリによっていじめっ子たちは殺され、陽の光を避けるためにトランクに入ったエリとオスカーは列車に乗って街を逃げ出すのです。トランクの内と外、モールス信号で会話しながら。

つまり、二人は初めての友人であり、秘密の共有者であり、共犯者であり、種族の違いも超えた恋愛感情以上のパートナー、いわば共依存の関係になるわけで、決して単なる吸血鬼の少女と少年の恋物語というわけではないんです。

とはいえ本作のストーリーは、(異種間恋愛物語としては)結構ありがちで、特に目新しさはないように思います。バンパイヤ映画としても正統派というか、むしろ古典的なほど設定を忠実に守っています。それでも本作が素晴らしいのは、古典的な吸血鬼設定を変える事なく、その語り口で新しい見せ方をした点と、余計な説明を極限まで省きヒントのみを与えることによって、解釈の余地を広げている点にあると思います。

普通に観れば純愛物語に見える本作も、エリとホーカンの関係があるので、エリがオスカーを次のホーカンとして連れ去ったと解釈することも出来ます。また、今は純粋な二人の関係も、将来的にはエリとホーカンのような関係になるかもしれないと想像できるし、エリは吸血鬼になってからずっと、そんな関係を繰り返しているのかもしれないと想像してしまう。

トーマス・アルフレッドソン監督は、あえて多くを語らないことで逆に観客に二人の過去や未来を予感させるような雄弁な映画に、本作を仕上げたのです。

そしてキャストも絶妙です。

エリを演じているリーナ・レアンデションは、どこかエスニックでミステリアス、中性的で見ようによって少女にも大人にも見える何とも不思議な雰囲気の少女です。オスカーを演じているカーレ・ヘーデブラントはリーナとは対照的にザ・白人の美少年といった感じですが、少年というより子ども特有の貧弱な体格と、寄る辺ない佇まいがオスカーのキャラクターにピッタリ重なります。

そんな二人を監督はスウェーデンの冷たく澄んだ空気と共に、ひたすら静かに淡々と描いていきます。冬は雪に閉ざされる北国と、周囲から孤立したエリとオスカーの閉じた世界が重なり、本作は他に類を見ないほど美しく、純粋で、それゆえに切なくて残酷な物語になっているのです。

ちなみに、エリはアビーという名の「少女」の吸血鬼に改変され、オスカーはオーウェンと名前を改め、アビー役を「キックアス」のクロエ・グレース・モレッツが、オーウェン役をコディ・スミット=マクフィーが演じ、この映画から二年後の2010年に本作は「モールス」というタイトルでハリウッドリメイクされます。舞台がアメリカであること、アビーが「少女」という以外はこれといった変更はなく(問題のシーンもない)、普通に面白い作品に仕上がっています。(敢えて言うならオスカーの将来=ホーカンの解釈に寄っている)

キャストに関しては、個人的に「ぼくのエリ~」の方がより作品の世界観には合っているように思いますが、両方を見比べてみても面白いかもしれません。

すっかり長くなってしまった上に、浜村淳さん並に完全ネタバレしておいて今更ですが、「ぼくのエリ 200歳の少女」は名作ですので、もし機会があれば(自己責任で)是非ご覧下さい。













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