「ゾンビつかいの弟子」感想

ここ最近、フォローさせてもらっているかねきょさん伊豆平成さんのnoteで「ゾンビつかいの弟子」という小説の感想がアップされてまして。

僕は最初、タイトルを見て「ラノベの新刊かな?」 と思ったんですけど、お二人の感想を読んでみると、この小説は森とーまさんという方がnoteで長期連載されていた作品である事が分かりました。(先日無事完結)

連載版第一話

[最初から]ゾンビつかいの弟子1章前半

(自分も書いておいてなんですが)普段note(というかネット上)で長期連載の小説って中々読めないんです。が、かねきょさんや伊豆さんの感想を読み、またタイトルに個人的に大好物の“ゾンビ”が入っていることもあって興味を惹かれ、連載版の1章から読み始めたんですね。

最初の方は結構短めに区切られている事もあって読みやすく、サクサク読みすすめているうちあっという間にハマってしまいまして、「少しずつゆっくり読んでいこう」という最初の思惑とは裏腹に、ページ?をめくる手が中々止められず、結局3日ほどで読破してしまいました。(読むのが遅い)

読み終わったあと、まず思ったのは「これは凄い小説だぞ」ということ。

では、一体何がそんなに“凄い”のか、ネタバレしない様に感想を書いていこうと思います。

ゾンビだけどゾンビじゃない、ゾンビじゃないけどゾンビ

まずタイトルですよね。
読む前に僕がタイトルから想像したのは、中世ヨーロッパ(もしくはモデルにした世界観)を舞台にしたネクロマンサーが主人公のファンタジーでした。(アニメ脳)

ところが、読み始めてみると僕の想像はまったく外れていて、どちらかといえばSF。しかも現代日本を舞台にしたリアルなシュミレーション系のハードSFだったんですよね。(そういうジャンルがあるのかは分からないけど)

例えるなら、庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」が一番近いかもしれません。
つまり、もし日本にゾンビが現れたら。そしてそのゾンビが何者かの意志によって操られ、日本を攻撃したらどういう事が起こるのか。という一部始終をかなり詳細にシュミレーションした内容なのですね。

そしてもう一つ驚いたのは、本作に登場する“ゾンビ”は、厳密に言うとゾンビではありません。
なぜなら、このゾンビには噛まれても感染しないから
その正体は是非小説を読んで頂きたいんですが、ジョージ・A・ロメロからスタートしたゾンビは、噛まれると感染して自分もゾンビになってしまうというのが肝なんですが、本作はそうした“ゾンビもの”の文脈とはまったく違うんですよ。

ところが、読み進めていくと、ストーリーは間違いなくゾンビものなのです。

実は今やゾンビ映画界隈では、ゾンビに噛みつかれるとゾンビになってしまうというパターン意外にも、ウィルスによって(生きたまま)凶暴化した人間が他人を襲うものや、呪いや悪魔、怨霊などと合体しているパターンのものなど、多くの“進化系ゾンビ”が登場していたりします。

しかし、それでも“ゾンビに噛まれた者はウィルス感染してゾンビになる”という設定だけは(僕の知る限り)一応守られているんですね。

しかし、本作の“ゾンビ”はウィルスを媒介して増殖する事がないので、そういう意味ではゾンビではないんですが、もう一つゾンビ映画には重要なファクターがあって、それはゾンビによって文明や理性という皮を剥がされた時の人間の愚かしさであり、醜さであり、美しさであり。要は人間の本質を描くということ。
ゾンビは、災害や戦争のメタファーでもあるんですね。

つまり、全てのゾンビものは、ゾンビという異物を通して“人間”を描く物語なのです。
そういう意味で、本作は間違いなくゾンビものなんですよね。

本作の主人公、伊東くんは進学校に通う高校3年生。
もやしっ子で皮肉屋で基本的に全てに対して熱量が低いごく普通の高校生男子。

そんな伊東くんが、ネット上で知り合った“バーチャル妹”のビィと、実の妹のお墓参りに行くところから物語はスタートします。
そこに手下?を従えて現れたの赤服に赤い長ハチマキで現れた金髪の男。
彼の名は神白といい、地元に現れる“ゾンビ”を退治する自警団のリーダーでニートです。
彼がゾンビ退治に熱意を燃やすには、ある事情があります。

ふたりと行動を共にするヒロインのビィは、Twitterに謎の書き込みを残して忽然と消えてしまいます。
そして再び再開した彼女は――。

さらに、第2章で登場する数田という男は、県境から出られず困っている伊藤くんや神白に情報を与える代わりに伊藤くんからお金をせびり取る嫌なヤツですが、そんな彼にもある秘密があり。

といった具合に、登場するキャラクターはそれぞれ事情を抱えていて、ゾンビに日常を侵食されていくことで、彼らが抱える事情や葛藤、意思。
ゾンビや騒動に対するスタンスが(伊藤くんの視点を通して)少しづつ見えてくるわけです。

「日常の崩壊」描写がリアル

冒頭、田舎の地方都市や村に現れたゾンビは、出会った人間を襲う(暴行を加えたり攫ったり)程度だったわけですが、やがて“彼ら“は、徐々に都市部に侵食を始めます。

電車に飛び込んでダイヤを乱したり、スーパーなどの食品に針などの異物を混入するテロ行為を行うようになり、やがてガソリンスタンドを爆破し、高速・幹線道路などに現れるようになり、ネットや電話を使用不能にしていく。

一つ一つの“攻撃”は決して大規模なものではないけど、それらは確実に人々から文明を剥ぎ取り、分断し、やがて日本中をパニック状態に陥れていくんですね。

それらの攻撃に対抗するため政府は県境を封鎖して身元の不確かな者を流出させない「関所法」を施行し、また各地方で食料・飲料などに対して独自のルールを決め、自警団らしき若者が市井の人々に圧力をかけるようになっていくという一連の流れも見事で、もし本当に(ゾンビでなくても)こういうテロが起こったら、日本は確実にこうなって行くだろうという説得力があるのです。

また、その塩梅も実に絶妙で、非常時、普段は何者でもない若者たちがここぞとばかりにイキってカン高い声を張り上げ、人々に「ルール」を押し付けるとか、まだ流通が生きているコンビニから購入した食料や飲料を高値で転売する“コンビニ屋”や闇市が横行するとか。

これがアメリカが舞台の小説だったら、引き起こされた暴動で一気に文明が崩壊することは確実ですが、本作の、ゆっくり、しかし確実に壊れていく日常の中で、それでもギリ日常を保とうとしている人々様子は実にリアルだし、これぞ日本のゾンビものって感じがするんですよね。

森さんご本人が意識して書かれたかは分かりませんが、本作の日常がゆっくり壊れていく様子をこれだけリアルに感じるのは、僕らが3・11を体験している事が大きいのではないかと思います。

伊豆さんの感想へのお返事という形で森さんご本人が書かれていますが、本作の主な舞台は東北で、森さんも仙台市で被災されたとのこと。
日常が壊れる被災を、(東北から離れた)僕のような人間よりもずっと間近で体験された事が、本作のパニック描写に強烈なリアリティーを与えているのではないかと感じました。

つまり、この小説はホラーではなく、(少なくとも序盤から中盤にかけては)災害パニックものであり、ある種シュミレーションとしても(登場キャラクターの出会いと別れを含め)極めてリアルなのです。

さらに物語が進み、紆余曲折を経て最終的に本作は人のように動く“ゾンビ”は人間か否かという深い部分にまで本作は踏み込んでいきます。
それは、序盤から中盤で描かれるパニックの中で思考停止をした人間たちと「対」になっているんですよね。

まったく先が読めない展開

小説やマンガ、映画やアニメなど、多くのフィクションに触れていると、自然と次の展開を予想しながら読む(観る)ようになっていきます。

なので本作も「次はこうなるだろう」と先を予想しながら読んでいたんですが、結局、最後の最後まで一回も当たりませんでしたよw

例えば次回への引きを作るようなラストに「ここで終わるっていうことは次はああなるだろう」と思ってページをめくると、そんな僕の予想のはるか斜め上(褒め言葉)をゆく展開が待っているんですね。

本作は起こっている事象やキャラクターの感情の大きさに対して、極めて淡々と、一定の距離感を持って描かれていて、ある種の物語的なスカしだったり、大胆なジャンプカットだったりを駆使しながら、読み手の予想や期待を軽快に裏切っていきます。(褒め言葉)

これ、下手にやるとマジで“ただの裏切り”になってしまうところですが、森さんの場合こっちの予想の更に先を見せてくれるので、裏切られるたびに「そうくるかー!」と驚きながら、裏切られたことに喜びすら感じてしまうんですよね。

だって、自分が想像した展開より面白いんだもの。

これも、ご本人の計算なのか、それとも自然にそうなったのは分かりませんが。
そんな森とーまさん独自の視点や切り口で紡がれた本作のクライマックスとなる、6章~最終8章は誰もが一気読み確実だと思うし、一人でも多くの人に読んで欲しい作品だと思いましたねー。

興味のある方は是非!!!!


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