映画の話

(今更ながら)シン・ゴジラ考

ぷらすです。

『シン・ゴジラ考』などと大上段に構えたタイトルをつけてはみたものの、もう既にネット評、映画評などあらゆる角度からあらゆる人々に掘り尽くされているお題な上に、迂闊な事を書くと僕みたいなニワカファンよりもずっと詳しい『シンのゴジラ者』の方に怒られそうだなーとガクブルですがw
一応、僕なりに『シン・ゴジラ』について語ってみたいなーなんて思います。

感想とちょっとした解説は、既にこちらのブログに書いているんですが、ここではその補足みたいな感じで、その後思ったことなんかをネタバレありで書いてみたいと思います。

なので、これから『シン・ゴジラ』を観に行く予定の方(さすがにもういないとは思いますが)は、映画をご覧になったあとに、このnoteを読んで頂けたら嬉しいです。

シン・ゴジラ

僕がシン・ゴジラを観て、まず思ったのはブログでも書いたとおり、
初代、米国版も含めた全ゴジラ作品の中で、最高傑作! でした。

とか言いながら、実は僕は今までの歴代ゴジラ作品を全て観てきたわけでもなく、もっと言うと子供の頃からゴジラよりガメラの方が好きだったりするんですけどね。

それでも僕が本作を、海外も含めたゴジラシリーズ最高傑作だと思ったのは、本作が初代ゴジラ以来唯一、災害としてのゴジラを真正面から描いているからです。
ゴジラはその長い歴史の中で、多くの怪獣と戦ってきた『怪獣の王』であり、ゴジラ映画=怪獣映画と認識されてる方も多いんじゃないかと思います。
もちろん、それ自体は間違っていません。
ただ、少なくとも1954年に公開された初代『ゴジラ』は、突如日本に上陸し首都を壊滅させた『災害』そのもので、つまりゴジラ映画のスタートは災害映画(ディザスタームービー)でした。
ゴジラという未曾有の災害を前に、人間はどう立ち向かい、どう行動していくのかが、初代ゴジラのテーマだったように思います。

しかし2作目以降、ゴジラはその人気と比例するようにアイコン化され、時に他の怪獣から地球を守るヒーローのように描かれたり、逆に悪役として描かれたりと色々なアプローチで描かれるものの、それらはあくまで『怪獣』であって『災害のメタファー』として描かれることはありませんでした。

それは、海外で製作された、エメリッヒ版、ギャレス・エドワーズ版でも同じで、やはりゴジラは『災害』としてではなく、『GODZILLA』という『怪獣』として描かれます。

ゴジラを抗いようのない『災害』として描いたのは、1954年の初代ゴジラと本作だけであり、そういう意味で本作だけが正しく初代ゴジラをアップデートしてみせた作品であり、かつ初めて初代ゴジラを超えた作品と言えるんじゃないかと思うんですね。

それは本作が、日本人が3.11の大震災と原発事故の記憶を残している今の時代だからこそ作り得た作品なのは言うまでもありません。

メタ視点で見るシン・ゴジラの正体

ゴジラの正体については、既にネット評などで散々語られているんですが、劇中クルーザーから姿を消した牧教授であるというのが今のところ最も有力な説みたいです。
これは、ゴジラは何故東京に上陸したのかという理由にも関わっているわけですが、物凄くザックリ言うと、牧教授は奥さんを放射能事故で失っていて、その復讐のために何らかの方法でゴジラになって東京に上陸したっていう説ですね。(詳しくはネットで検索してみて頂ければ検証が山ほど出てきます)

で、この牧教授は写真のみの登場なんですが、この写真の人物は庵野監督が敬愛する映画監督の岡本喜八です。
劇中でのキャスト全員にテロップが出る演出やテンポの速い会話劇は、岡本喜八監督の映画で使われた手法のオマージュだと言われてます。
他にも、ウルトラマンシリーズの実相寺昭雄監督や、「金田一耕助シリーズ」の市川崑監督のオマージュと思われる演出がそこかしこに見え隠れしてますよね。

この三人の監督はそれぞれ人気監督ではありましたが、特に岡本喜八、市川崑両監督はあまり人間の心情を役者の演技で表現する『ドラマ』に頼らず、作りこんだ画で観せる作風の監督でもあり、それゆえに人気監督でありながらドラマ重視の日本娯楽映画のメインストリームからは外れていたわけですね。

対して、本作で庵野監督は作りこんだ画と、役者に演技をさせないテンポの速いセリフの応酬、不必要な要素(登場人物の公私の『私』の部分の描写)を徹底して省いた、まさに敬愛する三人の監督と同じ演出で東宝娯楽映画のど真ん中である『ゴジラ』を大ヒットに導いて、この作劇方法の正当性を証明してみせたわけです。(これは春日太一さんの受け売りですが)

そういうメタ的な視点で本作を観ると、牧教授の写真が岡本喜八監督だったことは偶然ではないんだろうと思うし、劇中に登場する牧教授の書置き「私は好きなようにした、君たちも好きなようにしろ」も、かなり意味深だなーなんて思ったりするわけです。

つまり、娯楽映画のメインストリームから外れながらも「好きなようにした」岡本喜八監督を敬愛する庵野秀明監督が「好きなように」作ったのが本作「シン・ゴジラ」で、(タイトルは一々挙げませんが)これまでお涙頂戴のドラマ重視でダラダラ(僕にとって)つまらない大作を作り続けてきた日本映画界の常識やしきたりを丸ごとひっくり返してみせたという意味では、シン・ゴジラの正体は庵野秀明自身だったんじゃないかなーなんて思うんですが、どうでしょう?w
(お涙頂戴の映画が悪いっていう話ではないんですよ? そうじゃない映画にもお涙頂戴のシーンが必ず組み込まれてせっかくの物語がグダグダ蛇足だらけになっていたのが個人的に嫌いっていう話で)

庵野秀明の物語

本作についてよく言われるのが、庵野監督の代表作「エヴァンゲリオン」との相似ですよね。
尻尾だけの第一形態から、地上に上がってきた第二形態(通称 蒲田くん)、立ち上がる第三形態(通称 品川くん?)までの進化過程の姿は確かに使徒っぽいですもんねw
僕もこのゴジラ=使徒っていう意見はその通りだなーと思います。

もっと言うと、庵野さんが大阪にいたアマチュア時代に撮影した8ミリ映画『帰ってきたウルトラマン』は、突如出演した怪獣に対して核攻撃の決定が下り、庵野さん扮するウルトラマンがギリギリ阻止するという、こちらも本作を彷彿とさせる内容だし、ラストシーンで映るゴジラの尻尾の中身は『巨神兵東京に現る』の巨神兵っぽいですよね。

あと、石原さとみ演じるカヨコ・アン・パタースンというキャラクターは、あの作品の中では異質というか、彼女だけはアニメ的なキャラ造形だなーなんて思ったりします。

そして、上記の岡本喜八監督や市川崑監督、実相寺昭雄監督のオマージュ的画作り&状況を片っ端からセリフで説明するのは、庵野監督がこれまで培ってきたアニメーションの演出方法でもあります。

映画序盤、日本のお偉いさんたちはゴジラという『災害』に何も出来ず、身のない会議を繰り返して、観客をイライラさせますよね。
そして、中盤ヘリで避難しようとしたお偉いさんたちは、ゴジラの『背中ビーム』で全滅し、後に残った長谷川博己率いる専門家チームや現場の人間が一丸となってゴジラと相対します。

この展開に、庵野監督自身の政治的思想を連想している人も多いようですが、本作で庵野監督が描きたかったのはそういう政治批判や思想ではなく、物凄くザックリ意訳するなら、「日本のエンタメ界を堕落させた老害どもに変わって、これからは本当に面白い物を作るクリエイターが活躍する時代だ」という彼の決意表明だったんじゃないかと僕は思います。

つまり『シン・ゴジラ』はそのまま、庵野秀明自伝であり、同時に庵野秀明のエンターテイメント論&決意表明という見方も出来るんじゃないかと、ネットでシン・ゴジラ評を読んだり聞いたりしているうちに、そんな風に思いました。

まぁ、本作をメタ的な視点で見たらこんな風に観れなくもないという、『シン・ゴジラ』の物語に対する批評や感想とはまったく関係ない、ただの与太話ですけども。

そんな訳で、僕の『シン・ゴジラ考』はこれにて終了です。
最後まで読んでくださった方は、本当にありがとうございました。
(*´∀`*)ノ



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