千字百夜の三題噺 第三夜

マスタード•異常気象•ソロ

 手もとの文庫本に目を落としていると、不意に視界の隅に鮮やかなマスタードイエローが飛び込んできた。
「やっ。待ったかい?」
 視線を上げると神崎が立っていた。ソール厚めの黒いハイカットスニーカーに辛子色のロングスカート、黒のMA1。秋の昼下がりにぴったりだと思った。
「30ページくらい読んだ」
「むっ。そこは”全然待ってないよ“でしょ?」
「嘘は嫌いなの。行こっか」
 文庫本を閉じて鞄に仕舞うと私は先に歩き出した。
「あっちょっと田中! 待ってよ!」
 目的地の知恩寺までは出町柳駅から少し歩く。
「だいぶ冷えるようになったねー」
「もう11月だからね」
「まだ京都の秋は2回目だけど夏は暑いし冬は寒いし、これくらいまでで勘弁願いたいねぇ」
「そうだね」
 大学に至るまでずっと京都の私は最早悟りの境地にあるので、暑さ寒さにいちいち文句は付けない。
「あっ”いまさら文句を言われても”って顔してる!」
「し、してないし」
 図星を突かれた。
 私は顔に出ないタイプだと自負しているが神崎はやたらと他人の感情を読み取るのが上手いらしく、私の思ってることをよく当てる。口下手な私にはそれが心地よかったりもするのだが、そんなことは口が裂けても言えない。
「えっなんでドヤ顔してるの?」
してねーよ!
 そんなくだらないやりとりをしているうちにお目当ての知恩寺に着いた。
 今日は待ちに待った古本まつりの日。
 幟が掲げられた西門の前に佇むと、それだけで気分が昂揚するのを感じた。
 境内に入ると古書店がめいめいに設営した台や本棚が紅白幕で飾られ並んでいた。レジ袋やエコバッグを手から提げた人々が回遊魚のように思い思いに本を眺めている。
「神崎、順番に見て行こう」
「うん」
 ぼんやりとこの作家とあの作家の本があればいいな、というのはある。
 でも、やっぱり古本市の醍醐味はこのランダム性だ。
 本との出会いに必要なのは、このカオスなのだ。
 鴨川の飛び石の間を勢いをつけ、跳ねていくような感覚。
 紅白の幕は私と本の出会いを言祝いでくれているようだった。
 この興奮を伝えようと隣に顔を向けると、神崎は既にこちらを見ていた。
「楽しそうで何よりだよ」
 春先までの自分であれば、ソロでどこでも行けたしなんでも楽しめた。
 でも今は神崎が隣にいてくれた方が、もっといいと思う。
「神崎とならどこに行っても楽しいよ」
「えっ?」
「へっ? ………今の声に出てた? ごめん。忘れて、今の無し。ちょっと何にやにやしてんの? 忘れろ忘れろ忘れろ!」
 にやつく神崎をぽこぽこ殴りながら、ひどく顔が火照っているのを感じた。
 今日はこんなにあつかっただろうか。きっと異常気象に違いない。

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