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日常という名のノンフィクション=本質、そして猫。

人間は「本質」という言葉に過剰に反応する。

「本質的な問題」
「本質を掘り下げる」
「私の本質とは何か」

google先生に「本質」とは何かを問うてみると、下記のようにおっしゃっている。

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ほん‐しつ【本質】の解説
物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿。「―に迫る」「―を見きわめる」
哲学で、存在するものの基底・本性をなすもの。
㋐偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質。
㋑実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するもの。
論理学で、思惟の対象を定義する諸限定。類・種のごとき普遍をさす。→実体属性本体
(goo国語辞典より引用)
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後半は小難しくてよくわからないけれど、私なりに解釈すると、「余計なもの全てを削ぎ落とした素のあなた(わたし)」ということだと思う。この場合の「あなた」は、人だけへの呼びかけとは限らない。

そして、人は、やっきになって「本質」を探求しようとする。

会社員時代、「真の原因とは何か」を見極めることが大切だと教えてくれた先輩がいた。
原因の本質をブレずに認識することが、問題解決への近道であることに、疑う余地はない。
そして、「素のあなた(わたし)」が、いろいろな皮を被って奥深くに眠っているため、表面的には捉え難いこともしばしばある。

それを掘り起こすために、人は様々な労力を払う。
MECEや様々なフレームワーク、ロジックツリーを駆使した論理的思考回路がそれを助けてくれることもある。
様々な本を読み漁り、著名人の講演を聞きに行くこともあるだろう。
高いコンサル料金を支払い、専門家に相談する人もいるかもしれない。

しかし、最近、こう思うのだ。

「素のあなた(わたし)」って、そんなに小難しくて、探し当てるのが困難なものなのだろうか。
実はすぐそばに転がっているのに、「探り当てないと見つけられない」と思っているのは、人間だけじゃなかろうか。

「本質」に目がいかないのは、「本質」がかぶっているたくさんの皮のせいではなくて、実は、自分が今までの人生で身につけてしまった分厚いフィルターのせいではないのだろうか。

そのフィルターは、時には自分を守ってくれる大切なものでもあっただろう。
しかし同時に、本来見えていたものを歪曲させ、自分にとって都合の良い現象しか見えなくしてはいないだろうか。

とある方の思索に関するYoutube動画の中に、「本質は、日常の現象の中にこそ見出すもの」という内容があった。(私の解釈ですが)
会社を辞め、毎日が「何気ない日常」となった私の生活の中では、「本質」を感じることが以前より増えている。
分厚くなった自分のフィルターを1枚ずつ外せば、自ずとそれが見えてくる。

この文章を書いている私の膝には、こちらの都合などおかまいなしに「当然の権利だよね」とでもいうように、飼い猫がのっそりと鎮座し、「早よなでれ」と、私を上目遣いに見上げる。
キーボードを叩く手を休め、両掌で丹念に顔から首を撫でてやると、その喉からは全力のゴロゴロがMAX音量で垂れ流される。

これぞ、本質。
猫はナチュラルに、「素のわたし」を実践することを知っている尊い生き物なのだ。
だから私は猫に惹かれるのだろう。
ともすれば「素の自分」でいることを忘れてしまう私に、大切なことを思い出させてくれる存在。

時に、日常は過酷で、逃げ出したいこともあるけれど、素の自分でいられる時間を愛しみ、楽しむ自分でありたい。


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