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0513「歴史から学ぶ」

ニューヨークに帰ってきて、普通に普通の週末を過ごした。東京に30時間いたというのが夢のようだ。まだ微妙に時差ボケが残っている。各種の心配事は少しずつ解決していっているが、まだ結構胃が痛い。

そういう心配事の中のいくつかは、ある種仕事上の「あるある」に分類されるもので、「あー。ああいうふうにやっとけばよかったのになあ」的な後悔が残るものもある。つまり、「歴史」に学んでおけばどうにかなっていたものもいくつかある。しかし、歴史から学ぶ、ということが歴史というものを学ぶ意味だとしたとき、学校でやる歴史というのはなかなかそこに繋がっていかないな、と思う。

自分が一番好きだった教科は歴史で、日本史も世界史も両方得意だった。大学受験のときは歴史の試験は論文になったので、歴史的事象に対する考察をひたすら書くみたいな感じだったが、知識を記憶するフェーズから、そういう論文フェーズになって、さらに好きになった。ところが、歴史という学問の実用性というのはとてもわかりにくい。

歴史っていうのは、どういうときに誰が何をしたらこうなった。それに対して誰が何をしたらこうなったよ、というような事象の連続でつくられているので、全部つながっている。卑弥呼の時代に起こったことと今起こっていることは、つながっていて、ちゃんと卑弥呼の時代の結果というのが今に投影されていたりする。

がゆえに、歴史というのは間違いなく、現代からさかのぼる形で学んだ方が良いものだ。例えば、今なんで日本は憲法改正とかでいろいろやってるのか、という話があって、それは、太平洋戦争というものがあって、その後の占領時代に日本国憲法っていうものができて、しかし国際情勢的な要請もあって便宜的に自衛隊というものができて、で、本音と建前が交錯していていま憲法改正でもめている、ということになる。もっといろいろあるが、そうなる。

じゃあ今度はその太平洋戦争というのはなぜ起こったのか、という話に当然なる。そこには当時の国際情勢もあるし、日本のムードもあるし、そもそもの日本の国民性とかの問題もあって、いろいろ考察されるべきなのだが、今の日本の歴史教育だと、このへんでいろいろ大事なことが飛んでいってしまう傾向があると思う。

日本人やメディア、あるいは歴史の授業なりで戦争が語られるとき、多くの場合、「悲惨な戦争を二度と起こさないようにしましょう」で片付ける。そのために、結果としていかに戦争が悲惨だったか、の話になる。そこだけ突然、前後の脈絡がない「悲惨な戦争の話」として展開される。

太平洋戦争みたいな近代って、授業でやるのが三学期の末なので、時間足りなくなって端折って駆け足で終わる傾向がある。それはとてもよくないと思っていて、近現代史というのは、今のリアルと、そこまで石器時代からなんだかんだやってきたストーリーとがやっとつながる一番大事なところだというのに、そこがわりと適当に行われるのは、歴史というものを長期にわたって学ぶ意味というのを半減させる愚行だと思う。

そのくせ、卑弥呼とかは1学期の最初のほうにやるので時間をとってしっかりやる。しかし、卑弥呼とか縄文土器とか前方後円墳っていうのは、今のリアルとの関係性でいうと一番遠いところにある何かなので、一番身近ではないものから(よく趣旨が飲み込めないままに)時間をかけて学んでいくようなことになる。

繰り返してしまうが、歴史というのは「なぜこうなったのか?」を掘っていくものであると思うし、何かの事象があったときに、「何がどうなるとこういうことが起こるのか」ということを知ることが、歴史というものから何か学ぶ上で大事なことだし、歴史を学ぶ意味だ。

たとえば、ナチスによるホロコーストは、どこで何が起こったのか、そしてそれが間違い・犯罪であるということが注目される。が、大事なのは何でそんなことになってしまったのか、ということだ。何のバックグラウンドもなしにホロコーストが起こったわけではなくて、結局それはかなり古代からのユダヤ人の歴史やヨーロッパの歴史、それと第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約とかドイツの政治の流れ、みたいないろんなことが重なって起きてしまっていることだが、結果からその先どうするか、二度と繰り返してはいけない、みたいなことは当然ながら、「どうすれば二度と繰り返さないで済むのか」ということを知るためには、ちゃんとそのバックグラウンドを勉強してたたき台にしないと無茶なのではないだろうか。

だから、歴史というのは、結果から「なぜ?」をさかのぼって理解したほうがきっと実用性がある。とか思うので、これからたまにそういうようなことを書いてみようと思う。

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