【読書録】西谷修『不死のワンダーランド』

 この本を読み続けて、たぶん一年かそこら経つ。以前に述べたように、最近の時間経過が自分の感覚とだいぶ違っているため、そこのところは自信がない。が、今年読み始めたということはない。去年のいつごろかかもしれない。とにかく、長さと読みやすさの割にはずいぶん時間がかかってしまった本を、ようやく読み終えることができそうだ。
 そういうわけで、西谷修『不死のワンダーランド』、最後の手前の章の「民主主義の熱的死」のつづきを読んでいる。
 ニーチェの畜群批判、賤民批判の話題が出てくる。ニーチェは、民主主義をニヒリズムの政治的な現実化だと見た。ニーチェは畜群を否定して、新しい独裁者の到来、選民主義を招いたのだろうか。違うと西谷修は言う。ニーチェのこの、ナチズムにつながりかねない思想について、未だに意味を読みかねていたけれども、この解説を聞いてなんとか理解できたような気がした。むろん、一面ではそういうところもあり、どこかで切り取ることなどできないのだろう。要はやはり、読み換え方だということだ。ニーチェは、人が民主主義によって、何の保証もなく主権者になった人に、そのまま価値づけなくあれ、と言っている。なんか違うな。原文を読み直そう。

 ニーチェはこのように民主主義を否定的に語った。しかしそれは独裁を、新たな絶対者やあるいは新たなアリストクラシー(貴族支配)を喚び起こすためではない。たしかに彼は「賤民の専制」を罵倒したためにまんまと独裁の露払いに利用されたし、みずから「貴族的精神」を顕揚してもいる。だが彼は「精神の貴族」なるものが制度的に「賤民」を支配すべきことを主張したのではない。そうではなく民主主義の平準化の中でひとりひとりが〈主権〉を放棄すること、そうして新たな絶対者――独裁者であれ国家であれ無名の公共性という空虚な権威であれ――に身を預けること、いいかえれば依拠するものをもたない赤貧の〈主権者〉たることを放棄することの怯懦が批判されているのだ。絶対的権威はすべてに価値の序列をつけて階層秩序の中におさめる。その権威を破棄して人間はみずから〈主権者〉となった。だがその〈主権性〉は、もはやいかなる権威によっても保証されない。人間自身が絶対的権威を廃棄したからだ。そのようにしてみずから価値となり、なおかつそれが価値であることを保証するいかなる権威もないという条件のもとでしかひとは〈主権者〉たりえない。それはほかならぬ「森の王ディアヌス」の境涯であり、あるいはマクベスのそれである。だがひとは、「掟」がそうさせたのだとか「みんな」がそうさせたのだとか言って、みずから〈主権者〉たることを否認し、たとえば「公共性」を匿名の権威に仕立てあげ、大空位の〈開け〉に蓋をしてそこに身を預けようとする。主人がいなければ主人の空位をさえ主人にしたてあげずにはいられない、その習性を指してニーチェは「賤民」と言うのだ。ディアヌスが〈至高者(主権者)〉であるのは、彼がみずから価値となりながら、それが価値であることに何の保証もないことを引き受けているからである。赤裸で無防備に虚空に身をさらしているからである。そういってよければ彼は、どんな避難所ももたない無権力の〈単独者〉だ。そしてある意味では無名の〈ひと〉である。「神の死」とは、そのような〈単独者〉が立つための前提であり、すべてを平準化する天空の〈開け〉は、そこから「畜群」が生じようともやはりこのような〈主権者〉の立つ条件なのだ。
(西谷修『不死のワンダーランド』、「民主主義の熱的死」、344-345ページ)

 私たちは、依って立つ根拠のない〈主権者〉になった。しかし、無名という権威にすがるようになった。何もなくなっても、何もないことにすらすがろうとする人というのを、ニーチェは批判したのだという。だから、依って立つもののないときに、みずからを価値として引き受け……
 そんなことだろうか。

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