マルクス・レーニン主義と四書五経

中国共産党王朝の政治的な公式文書では、歴代の最高指導者の無謬性と新たに発する文書が彼らの思想に合致していることを示すために、以下が枕詞のように並ぶ。
 毛沢東思想
 鄧小平理論
 江沢民3つの代表
 胡錦涛科学的発展観
(華国鋒は一切登場しない。)
もちろん、大元となるのがマルクス・レーニン主義であり、これら5つの思想は、中国共産党の党規約に指導思想として規定されている。
そして2017年の党大会で新たに指導思想として党規約に加えられたのが「習近平新時代思想」だ。

2020/6/17付⽇本経済新聞 電子版『《激震習政権ウォッチ》「習近平氏への誕生日プレゼント 魔物が潜む重慶と共鳴』では、「習近平新時代思想を21世紀のマルクス主義とする」動向が紹介されている。
つまり、なにかと派閥抗争が取りざたされる江沢民と胡錦涛はおろか、鄧小平そして毛沢東すら超えた神格的存在となろうとしている、というのである。
そもそも習近平には自力で権力を掴んだとの意識があるはずである。鄧小平が指名した江沢民と胡錦涛との派閥争いがあまりにも激しく決着がつかなかったので、無風の習近平にお鉢が回ったというのが、多くのチャイナウォッチャーの見立てである。
なので、自分は鄧小平の影響を受けない新たな政権だという意識にある、というのである。
一方で、政権基盤が弱いことから、寝首を掻かれぬよう中枢を“お友達”で固め、権力を駆使して事あるごとに反対勢力を粛清していく。

強く出るのは弱い証拠。走り始めたら止まる訳にはいかない。漢民族政権では失脚は死に加えて子々孫々までの名誉も奪われる。ついには神にまでならないと安心できないのだろう。

さて、歴代最高指導者の“思想・理論”が並んでいるが、これらはいずれもマルクス・レーニン主義に対する解釈であることに注目すべきである。
マルクス・レーニン主義という大看板は下ろしていないのである。看板はそのままに、その時々の政治経済状況に合わせた政策方針が大看板通りであることを示す解釈なのである。
毛沢東と鄧小平の政策が根本的に異なることは説明不要だろう。しかし、どちらもマルクス・レーニン主義なのだ。
江沢民の3つの代表では、階級の敵であったはずの資本家・企業経営者も党員として許容した。これもマルクス・レーニン主義なのだ。

このような政治手法は、清までの漢民族地域王朝で繰り返された歴史と実は全く同じであるのだ。

但し、マルクス・レーニン主義に相当するのが四書五経だ。

四書五経は、ヨーロッパにおけるギリシャ・ローマ文化やローマ・カトリックに相当するものだ。

春秋戦国の時期、現在の漢民族地域のネイションは分かれており言語も異なっていたが、外交活動において詩、つまり現在の詩経のもととなる歌謡を唱えあうことで、これを理解しあえる関係として、漢民族地域が一つのネイションとして意識され始めたのである。
「詩言志」:志を言うために詩(うた)う
「与語詩」:ともに詩を語る

ところが、政治環境・経済環境は同じところに止まらない。そこで時の政権による解釈が生まれるのである。
そして、王朝が交代する際、新しい王朝はそれまでの王朝の書庫を焼き尽くす。解釈を消したいからである。
しかし、政権を奪うや、再び四書五経を収集する。なぜならば、古代から続く正当な政権王朝であることを示すためには、四書五経を得て解釈を加える必要があるからだ。
書物の焼き払いは秦始皇帝の焚書坑儒ばかりが取り上げられるきらいがあるように思えるが、漢民族王朝の交代ではお約束のようなものである。
例えば、日本では平安時代以来好まれてきた六朝文化を育んだ魏晋南北朝の南朝においては50年程度の短命王朝が交代する度に書庫が焼き払われ、「文選(もんぜん)」を編纂した梁の皇太子である昭明太子が収集したとされる3万巻の書物も一切伝わっていない。

近い所では、まさしく文化大革命が焚書坑儒だ。同時代に生きていると、毛沢東が劉少奇に嫉妬して、過激な政治的反転に打って出たように見えるが、歴史を俯瞰してみれば中国共産党王朝、あるいは孫文王朝初期の書庫焼き払い行動と理解してよいのではないだろうか?

なぜなら中国共産党王朝の源流は五四運動に遡る。五四運動は四書五経の権威を否定し、「民主」と「科学」を重視した。これを体現するのがマルクス・レーニン主義であるとするのが、中国共産党である。
毛沢東が孔子を否定した(批孔)ことは広く知られているし、魯迅なども始皇帝の焚書坑儒は法治主義に基づき封建的な非科学的な権威を排したものとして評価しているほどである。
つまり、中国共産党政権におけるマルクス・レーニン主義は清までの四書五経なのである。

それにしても自分をマルクス・レーニンと同格に置こうとする習近平も大胆なものである。

儒教の世界で言えば、自分は三聖(伏羲・文王・周公・孔子など)と同じだと言うようなものである。

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