“ゴミ拾い”と“金運”、それらの相性が良い理由 ~溝に落とされた吸殻が向かったその先は~(#55)
年の瀬のある夜、セブンイレブンの前に一人の女性がいました。
彼女は駐車した後、降車し、外でタバコを燻らせ始めます。
そのコンビニは喫煙場所を設置していませんでした。
同乗者がいたかどうかは分かりませんが、数分と経たないうちに促されるようにタバコの火を消して、その吸殻をどこに捨てるべきか迷った挙句、道にある排水溝へ屈んで落としたのです。
その所作はなんとも慇懃だったので、妙な違和感を覚えました。
なぜって、慇懃な所作だけで行為自体まで慇懃になるわけではないではありませんか、だって所詮は「ポイ捨て」なのですから。
そんな所作と行為のギャップを垣間見て、素朴な疑問が湧いてきました。
彼女はどうしてゴミ箱へ捨てるように排水溝へ落したのでしょうか?
推測するに、現在多くの自動車の社内に灰皿が設けられていないこと、あるいは火が不完全に消えたタバコを”燃えるゴミ”としてコンビニに設置されてあるゴミ箱へ投棄することに躊躇があったのかもしれません。
しかし、排水溝に投げ入れても“ゴミ”としての外形を変えるわけではありません。
繰り返しになりますが、所詮「ポイ捨て」ですので、タバコを道に捨てるのと変わらないのです。
タバコはあたかも“なくなった”かのように消え、美化に貢献するそんな行儀良さと彼女の所作は結び付いていたのかもしれません。
彼女は律儀に“排水溝へゴミを捨て”たのです。
そんな所作をみながら、文化的なものを覗き見た気がしました。
ところでそのタバコは本当に消えてしまったのでしょうか?
そんなはずはありません。
公共のゴミ箱と同様、誰かによって回収される、あるいはそのまま漂流しているのです。
そこで今回、水という観点とゴミの分別・リサイクルについて少し掻い摘みながら考察してみることにします。
吸殻は何処へ?
彼女の捨てた吸殻はどこへ辿り着くのでしょうか。
結論からいうと、最終的に海まで続くどこかの川へ辿り着きます。
彼女の吸殻が投下された場所は道路の脇にある“側溝”と呼ばれる排水溝です。
そこは雨水を川や海へ誘導するという目的があります。
つまり吸殻が目指す場所は処理施設など人の手を介することのない自然に水がある場所です。
当然、川といってもいくつもの支流があるため、本流へ辿り着くまでに様々な小川を経由していきます。
その過程の中で小川は障害となって吸殻へ向かっていくのです。
吸殻が小川の端で滞留し続けることで遂に“ゴミ”としての形態を露わにします。
無事、本流へ辿り着いたとしても、最終的に海へ流されるので、形態としては浮遊物のまま、自発的に処分されるようなものではありません。
つまりトイレや食器洗いなどの生活用水は処理されて、雨水などは処理されないまま直接川や海などへ流されるのです。
彼女が捨てた場所は都市の景色のひとつですが、私はかつて農村で明治生まれの御老人が吸殻の入った灰皿をそのまま用水路で洗い流す場面を目撃したことがあります。
その用水路が最終的に辿り着く先は湖でした。
その光景があまりに衝撃的だったため、その行為を正当化する理由を探していました。
その農村は自然が豊かな場所です。
そして自然が遥かに凌駕しているため、環境汚染をしている行為が逆に際立ったのかもしれません。
汚いものを汚すより、綺麗なものを汚す方が罪悪感や衝撃が生じやすいのは二項の差(=ギャップ)から大きいからです。
ただし、行為の質に変わりはありません。
つまり、都市の行為(=女性のポイ捨て)は汚染した対象がぼんやりとして環境汚染の感覚が目立たなかっただけなのです。
日本には“水”にまつわる慣用句が多い理由
そんな都市で女性によって投げ捨てられた吸殻、農村で老人によって洗い流された吸殻が向かった先は水源でした。
共通点は“水”の存在です。
女性、老人が吸殻を捨てた側溝、用水路はそれぞれへ水の流れに関して言えば上流に位置しています。
私はその場面を振り返りながら、「水に流す」という慣用句がそれら行為を正当化しているように感じました。
広辞苑には「水に流す」以外にもこのようなものもありました。
それら共通点は水に交わることであるものが“溶け込む”ような含みを持っていることではないでしょうか。
また、水が当然のようにある環境でなければ、なかった表現ともいえます。
日本において水が“当然のようにある環境”だからこそ“ゴミをゴミでなくす”という頓痴気な発想に結び付いたのかもしれません。
水との関連で分かりやすい例はトイレです。
ちなみに日本のトイレは世界随一といっても過言でないほど優れています。
その土台にあるのもやはり“水”の存在です。
以下はトイレを中心とした水回りに関連するマガジンになりますが、日本以外の国と比較した場合、やはり日本が水の存在と密接に結びついていることに理解できます。
御興味ある方は御一読頂けたら幸いです。
ゴミ拾いがなぜ“金運上昇”と結び付くのか?
ところで「ゴミ拾いや掃除が金運上昇と結び付く」というのは世間で認知されていますが、どうしてしょうか。
その理由は案外認知度と比べて理解されていないように感じています。
先に側溝へ捨てられた吸殻を例に挙げながら、私なりの考察を加えさせて頂きます。
そもそも運はより自他的な行動に魅力を感じるものです。
運とは運自ら誰かに寄っていくものであると同時に、そんな運は誰かによって放棄されたものだと考えたら、妙な納得ができることが分かりました。
たとえば、運は街や家庭、あるいは海など様々な場所で舞っているとします。
ゴミはそんな運と同様、街や家庭、あるいは海など様々な場所に存在していないでしょうか。
先の女性はそんな運気の存在を知ってか知らずか、あるいはそんな考えを信じるも信じないもないまま吸殻を捨てます。
この行為で彼女は「ある分量の運気を自ら放棄した」と言い換えたとき、この吸殻を拾った人は「彼女の運気を手に入れた」と言えないでしょうか。
そんな吸殻を拾った人が業者であれば、そこに商売の需要を見出しているともいえますし、個人の場合、必ずしも商売と直結するわけではありませんが、他人の運を集めることで、ドラゴンボールの元気玉のようにそこらじゅうから小さな運気を集め、大きな力に変える、それがその人の人生を良化させるということになるかもしれません。
逆をいえば、積極的にポイ捨てする人は運気を自ら放棄しているので、それこそ“水になり、水にした”ことになるというわけです。
誰かの手を煩わすのは事実だが、もしその行動を諫めたいのなら、それは誰か(他人)のためでなく“自己(あなたの可能性の)放棄”の賜物として“損”への理解を促すべき
他人の目を気にしながら、相互に自制していくことで調和が保てている環境が日本にはあり、昨今否定的なニュアンスで使われがちですが、殊、公共美化に焦点を当てれば、優れた点です。
それは諸外国の中でも高い水準で維持されている気もしています。
それゆえに「行儀良い」だったり「街が綺麗」という海外からの賞賛の声が上がる一因になっているのかもしれません。
しかし、「誰かのために」という動機だけでは限界がありませんか。
「別に捨てたっていいけど、お前、損するよ?」
そういった理解がもっと深まらなくては更なる公共美化に結び付かない気がしています。
たかがポイ捨て、されどポイ捨て。
“ポイ捨てはいけません、確かにそうですが、本当にいいの、誰かに奪われちゃうよ、あなたの運気。。。”
もし人生を良化したいなら、小さな行動から見つめ直す、そういう部分も含めて彼女の吸殻は私へ“示唆に富んだ”行動を教えたのでした。
追記】公衆衛生を学び、“清濁併せ呑む”
“ポイ捨て”という行為に関して、日本は比較的少なく、先進的に公共美化が優れているのは間違いないです。
この点はグローバル社会においての国だけでなく、個人においても強みとなり得ます。
もしこの強みを放棄(=ポイ捨てをする)したら、新しい強みを一から見つける作業が求められますが、グローバル化の荒波の中で活かせる新たな強みを見つけるのは至難の業です。
だからこそここまで根付いた強みをもっと活かすべきであり、足許から考え直すことは学びがあることだと考えています。
アートやファッションを得意ジャンルとする私がなぜSANITATION(公衆衛生)という一見関係のないジャンルの記事を書いているかというと、結局それらアートやファッションへ息づく前提があるからで、“清濁併せ吞む”にはやはり避けては通れないジャンルなのです。
アートやファッションのより深い真髄に触れるためにこれからも公共衛生には注視していきたく存じます。
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