段落末尾でずらす技術

 呉明益の連作短編『歩道橋の魔術師』を読んでいる。ちょっと気づいたことを、書いていこう。

段落末尾は一連のトピックを終結させるところ

 一つの段落は、一つの意味のまとまりとして作家が提示しているものである。基本的には最初にトピックの提示かきて、それを具体化し、最後にまとめる形がとられることが多い。

 段落最後の文は、そのトピックのまとめになる。このまとめの仕方が、呉明益はうまい。

 最初の日、姉貴が朝、歩道橋までぼくを連れてきて、昼ごはんのおにぎり(飯糰)を置いて帰っていった。ぼくはまず靴ひもを一足分ずつ歩道橋の欄干に結んだ。風が吹いて、靴ひもがひらひらと揺れた。それから腰掛けに座って、一足一足、靴の中敷きを左右対照に並べていく。ぼくは「響皮(シャンピー)」を一番手前に置いた。それが一番高いからだ。一足三〇元(約一〇〇円)もする。母さんの話では、響皮は豚の皮で作った強烈な香りがする中敷きで、何枚か重ねてこすり合わせれば、キューキューって音が鳴る。だから響皮と言うのだ。豚は死んでも、まだ鳴き続けなきゃならないってわけだ。

 この段落のトピックは靴を歩道橋で売ること。どんな靴が売られているかを書いている。情報内容としては「だから響皮と言うのだ。」で終わっていいところである。だが、「豚は死んでも、まだ鳴き続けなきゃならないってわけだ」と、締めとしては客観的情報に対する語り手の評価で終わっている。

 段落の締めをそこまで述べてきた情報に対する評価で終わらせるのは、よくある形式だ。客観的叙述→評価にずらすことによって、しまりがでる。ここではとりわけ、「子どもの頃の僕」の感性による一言にずれているので、「お、ずれたな」というところで話題が閉じられる。ちょっとずれたところで閉じられると、余韻がでる。

 魔術師は、道具を買ったぼくをぐっと引き寄せ、一枚の紙をくれた。彼は言った。「帰ってから水に一度浸けて、乾かすんだ。そうすればマジックの秘密がわかる」夜中、ぼくは家族にバレないように紙を水に浸け、母さんのドライヤーで乾かした。その後も、夜中にこっそりと練習した。紙には文字だけでなく、絵も書いてあった。魔術師が一枚一枚手書きしたものらしい。そういうことか! 紙に書いてある手書きの文字を読んで、「そういうことか」と言いたくなった。ぼくはこのとき、マジックのすべてを知ってしまったんだと思った。十一歳になって同級生に片思いしたときに、自分は愛のすべてを知ってしまったんだと思ったのとまるで同じように。

 この段落では、マジックの道具を買うと、そのタネが書かれた紙を渡される話をしている。この段落の意味内容としては「ぼくはこのとき、マジックのすべてを知ってしまったんだと思った。」で終わってもよい。しかし、この内容を「十一歳になって同級生に片思いしたときに、自分は愛のすべてを知ってしまったんだと思ったのとまるで同じように。」と比喩で言い換えている。それも、「十一歳の時」という、物語の現在よりは未来の話で例えている。最後の最後にずれをつくっているのだ。

 最後の最後にずれをつくったところで終わるのは、この短編小説全体の構造も同じだ。第一短編「歩道橋の魔術師」の最後の段落を見てみよう。

 ぼくは、魔術師の手のひらにあるマメを見た。手のひらにある入りくんだ掌紋を見た。そして魔術師はゆっくりと、人差し指、中指、親指を曲げ、すっと自分の左目へと挿しこんだ。それを見てぼくは、自分の眼球にかすかな痛みを感じた。魔術師の眼窩はとても柔らかいらしく、指はあっという間になかへ滑り込んだ。魔術師はわずかに指を回すと、自分の左目を取り出し、手のひらを広げてみせた。取り出された眼球は血もついてなければ、傷さえもなかった。完璧な丸さの、まるで今、誕生したばかりの乳白色の星のようだった。

 最後の段落で、魔術師は目を取り出し、「ぼく」に渡す。その最後の文は「完璧な丸さの、まるで今、誕生したばかりの乳白色の星のようだった。」と、その目の描写で終わっている。この描写からは、神秘を感じる。まだ終わっている感じがしないが、これで終わりである。ちょっと神秘的なフレーズで終わらせることによって、余韻が出ているのである。

 しかし、このラストの作り方のうまさは、再読してよくわかった。

 続く。

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