マジックのタネが明らかにされるとき

 魔術師はそう言い終わると右手を差し出した。まるでその上に乗ったなにかを見せつけるように、ぼくの目の前で手のひらを止めた。だいたい三〇秒くらいあっただろうか。そのあいだぼくは、魔術師の手のひらにあるマメを見た。手のひらにある入りくんだ掌紋を見た。そして魔術師はゆっくりと、人差し指、中指、親指を曲げ、すっと自分の左目へと挿しこんだ。それを見てぼくは、自分の眼球にかすかな痛みを感じた。魔術師の眼窩はとても柔らかいらしく、指はあっという間になかへ滑り込んだ。魔術師はわずかに指を回すと、自分の左目を取り出し、手のひらを広げてみせた。取り出された眼球は血もついてなければ、傷さえもなかった。完璧な丸さの、まるで今、誕生したばかりの乳白色の星のようだった。

 「歩道橋の魔術師」は最後、この段落で終わっている。最初に読んだとき、私は超現実的な印象を受けた。魔術師が自らの目をえぐって「ぼく」に差し出している。それを「ぼく」は、神秘的なもののようにとらえている。

 だが、よく読むと、この小説では魔術師の目についての描写がそこかしこでなされている。

「魔術師の目はくるっと、左右異なる方向を見ることがあった。まるで世界の動向をひとつでも見逃すまいとしているようだった。」

 「ぼく」は左目について「別の世界を見る目」だと思っているし、読者もそっちのほうこうに誘導されている。誘導されているからこそ、最後の段落を読んだときに神秘的な印象を受けるのだ。

 だが。

 これは単に義眼だと思われる。

 ところが、「義眼である」とタネを明かした時点で、その神秘性はなくなってしまい、ひどくつまらないものに変質してしまう。魔術にタネはあるのだが、それを見つけ出してはいけない。見つけ出した瞬間、それはウソになってしまう。義眼であるとネタ晴らしした瞬間、最後の神秘性は暴かれてしまうのだ。

 実は「歩道橋の魔術師」は、作品全体が「本当のマジック(タネが空かされていないマジック)」のようになっている。換言すれば、「本当のことのようでウソであり、ウソのようで本当のこと」のように感じられる。マジックのタネは、決して暴いてはならないのだ。

 また、魔術師は次のように言う。

「ときに、死ぬまで覚えていることは、目でみたことじゃないからだよ」

 「大人になったぼく」の回想という形式をとっている以上、このセリフは、この作品全体が「本当は見ていなかったこと」である可能性も示唆する。どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか。そのゆらぎが、優れた雰囲気を作っている。


 「タネがあかされていないマジック」は、「ぼく」のその後の人生のメタファーになっているとも読める。「大人になる前に、その後の人生をすべて予告されてしまったようなものだ。(p.11)」とあるように、子どもの「ぼく」はまだその後の人生の神秘を知らない。大人になった「ぼく」はそのタネを明かされてしまっている。タネはあかされ、現在の「ぼく」に至るまでの神秘ははがされてしまっている。タネは決して暴かれてはならない。その瞬間に、神秘性はなくなってしまうから。


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