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「チーム・オルタナティブの冒険」と「ふりかけ」の問題

 宇野常寛の新刊「チーム・オルタナティブの冒険」を読んだ。僕は宇野の文章を読んだことがきっかけで、「批評」の世界に興味を持ち、結果的にこうしてブログで怪文書を垂れ流している身なので、この本の情報が出てから読めるのをとても楽しみにしていた。
 本作は単行本としては宇野が書いた初めての小説となる。地方都市に暮らす主人公の少年・森本は、SOS団みたいな状態になっている写真部で親友たちとのホモソーシャルな関係に閉じ籠もりながら、周囲のクラスメートや大人たちを軽蔑している、典型的な厨二病だ。だが高2の夏、彼と親しくしていた教師・葉山が亡くなり、国語教師の樺山(カバパン)や転校生の由紀子らが写真部に乱入してきたことで、森本の感性や彼をめぐる関係性が変わり始める。一方、葉山の死や森本の親友・藤川の失踪をめぐってきな臭さが漂い始め、森本が真相を探り始める‥‥‥という、青春小説やミステリー、さらにSF的要素がハイブリッドした上質なエンタメ作品だ。
 宇野のファンだという立場を抜きにしても、とても面白かった。僕は森本とちょうど同年齢でこれを読んだので、彼の厨二病的な感性にはいちいち共感できた(その分、自分が普段周囲の人間に感じていることを客観的に指摘されたようで痛くもあったが)。宇野の愛読者として(中の上くらいには愛読していると自負している)ニヤニヤさせられる箇所も多々あった。例えば最後の「チーム・オルタナティブ」による戦闘シーンでは作者の仮面ライダーオタクとしての部分が全開になっている。その他、昆虫採集とか不味い学食とか、宇野の体験や嗜好を私小説的に投射したと思われる箇所を挙げれば枚挙に暇がない。
 また、宇野が常々評論という形で主張していることが反映されていると思しき箇所も見受けられた。象徴的なのは、森本が由紀子とカバパンとその助手のヒデが暮らす家を訪ねるシーンだろう。「そこは、誰もが自分の好きなことを、好きなようにやっているだけの」「奇妙な居心地の良さ」を感じられる場所で、奥には家庭菜園もある大きな庭が広がっている‥‥‥意図したかどうかは不明だが、これは宇野が提唱しているキャラクターの承認に依存しない関係性、そして「庭」プロジェクトが合体した一種の理想郷に他ならない。それと、度々登場する「これは想像力の必要な仕事だ。目に見えぬものたちを、かたちにすることだ」というセリフは、宇野の代表作「母性のディストピア」の掉尾を飾る一文(の変奏)だ。これらのフラグメントから、宇野が「チーム・オルタナティブ」に託した可能性を探ることもできるだろう。
 しかし僕がここで書きたいのはそういうことではなく、宇野がこの作品を「評論家の小説」として完成し切らなかった、その意図についてだ。
 どういうことかと言うと、宇野はこの本の発売にあたり、X(Twitter)で以下のようなコメントを発表している。

新刊のお知らせです。なんと、小説に挑戦しました。

題して『チーム・オルタナティブの冒険』。批評家がその問題意識を創作に……みたいな側面は嫌でも滲み出るので、純粋に自分が面白いと思うものを目指しました。実は、これまでの本でもっとも気に入っているもののひとつです。

騙されたと思って、読んでみてください。来週24日発売です。
宇野常寛 on X: "新刊のお知らせです。なんと、小説に挑戦しました。 題して『チーム・オルタナティブの冒険』。批評家がその問題意識を創作に……みたいな側面は嫌でも滲み出るので、純粋に自分が面白いと思うものを目指しました。実は、これまでの本でもっとも気に入っているもののひとつです。… https://t.co/cGWD6Jbx8i" / X (twitter.com)

 宇野は「問題意識を創作に」乗せることではなく、あくまで「純粋に自分が面白いと思うもの」を作ることを目的に当作を書いた、という。
 そう、この作品での宇野は評論家としてのメッセージ性のようなものをそこまで意図していない。僕が上に書いたような事項についても、おそらくはそれなりに宇野の著作を読んだ上で深読みしないと看破できないだろう。これらの描写ー「庭」プロジェクトとの関連性や、「想像力の必要な仕事」についてもっと掘り下げて、東浩紀の「キャラクターズ」や「クォンタム・ファミリーズ」のような、評論家として提唱した概念を高い次元で具現化する作品に仕上げることも可能だったはずだ。しかし宇野はそれを選ばなかった。宇野って誰という読者でもエンタメとして楽しめるものとして作品を結実させている。
 しかしここでもう一つ重要になってくるのが、上記の文章において、宇野が「チーム・オルタナティブの冒険」を、評論家としての問題意識を託した小説として読まれることを否定はしていない点だ。というより、意図せずともそうしたメッセージ性は出てきてしまうので、面白いストーリーを演出する方に力を入れた、と読むのが自然だろう。つまり宇野は、「面白さ」の観点で読んでも、「批評」的な観点で読んでも収穫のある小説を、この作品で作ろうとしているのだ。
 実際に著作を読めば、宇野の中で作品が「面白い」ことと批評的な評価が高いことが、かなりくっきり区別されているらしいことはすぐに分かる。例えば彼は仮面ライダーとガンダムの熱心なファンとして知られており、それぞれの近作である「シン・仮面ライダー」と「Gのレコンギスタ」のXアカウントをフォローしている。しかし一方で、「2020年代の想像力」の中では両作に対してかなり辛辣な評価を下している。この二面性は、彼が作品評価をどう捉えているかを如実に表している。
 そんなものは当たり前だ、と言われるかもしれない。しかし、誰もが面白さと批評的観点を意識的に区別しているわけではないことが、宇野の著作に対してつけられた読書レビューを見ると伺うことができる。特に「ゼロ年代の想像力」や「2020年代の想像力」といったコンテンツ批評に重心が置かれた著作のレビューにおいて、「面白ければいいじゃないか」「お前が批判している作品にだってファンはいるんだ」といった反論が一定数見られる。これらの言説は、作品の面白さと評価が常に一致すると思い込んでいるが故のアレルギー反応でしかないが、このような認識の支配性が、今日の「批評」に対する反感の一因になっていることは間違いない。
 この状況に対しての抵抗として差し出されたのが、「チーム・オルタナティブの冒険」ではないだろうか。評論家が書いた小説は、どうしても「ああ、主張がうるさそうだな‥‥‥」という先入観がある。ここに「単純に面白いものを目指しました」という作者サイドの願望を流すことで、「評論家の小説」として読むか、「単純に面白いもの」として読むかという二つのオプションがくっきり分かれるのだ。ほとんどの創作物が秘めている構造を、「チーム・オルタナティブの冒険」は前面に押し出して、「オプション」としての読み方を提唱しようとしているのだ。
 それはご飯にふりかけをかけるか否かという争いのようなものだ。宇野はこう主張している。ご飯はそれ単体で美味い。しかしふりかけを掛ければ新たな美味さが広がる。とはいえ、ふりかけを掛けるためにご飯を食べるのでは本末転倒だ。だったら、まずご飯単体の美味さを味わった上で、ふりかけをかけて食べれば、ご飯の持つ力を最大限に引き出すことができる——と。そして彼は今、ご飯の前に「そのまま食べますか?ふりかけをかけて食べますか?」という表示を置いてくれている。


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