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「首」ー渋谷事変が起こらない世界線の呪術廻戦

 今さらだが冬の間に北野武監督の「首」を見てきた。僕は北野映画には本当に全く触れたことがなかったのだけれど、鑑賞後の満足度はとても高かった。ただ、もう一度見に行きたいかと訊かれたら迷うことなく「否」だな、とも思った。そのギャップについて今回は考えてみたい。
 僕はまったく明るくないが、この作品は「アウトレイジ」等の北野のヤクザ作品のエッセンスを戦国史に落とし込んだものとして位置づけられるらしい。織田信長と家臣たちのバイオレンスで支配された日々が、五分に一回くらい首が飛ぶシーンを挟みながら描かれていく。
 僕はこの作品を、「渋谷事変が起こらない世界線の呪術廻戦」だと考えている。良い意味でも悪い意味でも、だ。以下、その意味と理由について書いていきたい。
 まず思ったのは、チラシにあった「戦国史を破壊する超・衝撃作」という宣伝文句は完全にこけおどしだな、ということだ。どう考えても「首」という作品は既存の戦国史の破壊ではなくむしろ温存の方向にエネルギーを向けている。信長のサイコパスさは言うまでもなく、下克上に燃える百姓とか、虎視眈々と計略に走る信長の家臣とか、家康が比較的「まとも」な人間として描かれているところとか、日本史についてまったくの無知でも「そうだろうな」と思うような借りてきたような登場人物ばかりだし、「みんな狂っている」という戦国時代の史観も凡庸だ。そもそも事前の印象操作と違って信長のサイコパスさにフィーチャーした映画というわけでもなく、政権の周囲で起こるきな臭い(ついでに血生臭い)出来事が淡々と描かれていくのみで、意外な掴みどころというものもない。もちろん北野以下の制作陣はこのことを十二分に分かっているはずで、むしろお約束通りの造形の登場人物や史実をどのように掘り下げていくか、というのが本作のコンセプトなのだろう。
 その狙い自体は、全編を通して「とりあえず」効果的に追究されていたとは言える。独自の観点というのは全くないが、高い精度で作られた予定調和を全力で楽しむことはできた(逆に新しい観点かどうかというのは、日本史にかなり詳しくないと分からないのかもしれないが‥‥‥)。人物造形その他の工夫のなさは、殺人の連鎖でかかるエンジンと、制作陣の「お約束通りで何が悪い」という開き直りによって何とか誤魔化されていた。正直個人的には、ありきたりなものをありきたりに描く創作物に(そこにどんな開き直りや正当化があろうと)どれほどの価値があるのだろうか‥‥‥と疑問に思わなくはないのだけれど、そこに文句をつけても仕方がないだろう。
 しかし、本能寺の変以降の展開について、この作品のコンセプトを超えた次元で問題が生まれていると僕は感じた。
 繰り返すが「首」はみんなが持っている戦国史へのステレオタイプを具現化するというだけの(覇気のない)作品であって、信長が死んだ後もそれは変わらない。史実通り、信長を討った明智光秀は備中高松から駆けつけてきた秀吉に敗れ、死ぬ。そして秀吉軍が山崎の戦いの事後処理をしているシーンで作品は終わる。
 僕は以上の終盤の展開について、信長が消えても案外みんなあっさりとしているな、と感じた。第一にあれだけサイコパスを強調していた信長が死ぬシーンはあっけないし、この後秀吉が天下を取っていくことが示唆されているわけでもない。信長と部下の関係が現代のパワハラやブラック企業を風刺している、という考察を複数見かけたが、僕はまったく逆の感想を持った。戦国時代が狂っているのは信長の圧政のせいでも何でもなく、信長という脅威がいなくなってもみんな依然として「狂ってやがる」のか、と僕は思った。
 そしてこのことが逆に、「首」に唯一の新鮮な達成をもたらしているのだ。「首」はバトルロワイヤルに近い状態の戦国時代のスケッチとして作られている。制作陣はおそらく、戦国時代の狂った人々をまんべんなく掘り下げていくことに夢中になるあまり、信長の影響力の強さを無視して、戦国時代のクレイジーピープルの一人として描いてしまったのだと思う。逆に言えば、一人の強大な人間が人々を狂わせるのではなく、それが死んでも歯車は止まらないという残酷な現実をこの展開は示している。多くの観客が期待した「サイコパス信長とそれに翻弄される家臣」という図式を、この作品は最後の最後で期せずして(良い意味で)裏切ってしまったのだ。それが「首」のほぼ唯一の達成と言っていい。
 しかしその達成こそが、観客のリピート意欲を妨げる要因になってしまっていることもまた、間違いない。信長が死ぬ描写をもっと丁寧に描くか、あるいは信長が死んだことによる恐慌、光秀や秀吉が増長していったり、信長と同じサイコパスに育っていくことが示唆でもされていれば、この「首」という作品は張り合いのある、ある程度のリピーターを生み得る作品になったはずだ。しかし信長に重点を置くのではなくあくまでイカれた登場人物たちを平等に描いていくという手法のせいで、この作品は単なるスケッチに留まってしまっているように思える。
 要するにこの作品は、五条が封印されても日本がアナーキー状態にならなかった世界線の「呪術廻戦」だ。「呪術廻戦」の渋谷事変は、五条という圧倒的な存在が封印されることで起こるカオスを描いたエピソードだった。言い換えれば「呪術廻戦」とは渋谷事変のためだけにある作品と言っても過言ではない。「首」は信長という圧倒的な存在が失われても大した恐慌が起きない世界——つまり五条が封印されても渋谷事変が起こらない「呪術廻戦」を演出した。しかしその代わりに、中心を欠いた恐ろしく単調な作品に仕上がってしまっているのだ。
 サイコパス信長がいなくなっても戦国時代は狂ったままだということを(意図せずして)突きつけたこの「首」という作品は、決して駄作ではないと僕は思う。しかし、「やっぱり渋谷事変は起こった方が(信長が死んでわちゃわちゃ起こる世界の方が)面白いな」と思わせて観客をリピートから遠ざける時点で「負け」ではないかとも思ってしまう。そして信長を特別な存在として描くか、単なるサイコパスの一人として描くかで生じるトレードオフに、もっと北野以下の制作陣が自覚的だったならば、信長のいない世界をもっと説得力を持って描けたはずなのだ。

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