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アイデンティティとかないけど生きてる

 「これだからアカの子は」

 

 小学生のころ、夏休みのたびに妹弟といっしょに祖父母の家に預けられていた。躾に厳しい祖父に「返事はハイ」っていわれて「子供だけのときはウンって言おう」って相談していたのがみつかってこっぴどく叱られた。そのあとで祖父が「これだからアカの子は」と吐き捨てるようにいって、祖母が「困ったもんやね」と頷いた。

アカが何を意味するのかは知らなかったけどお父さんとお母さんの悪口を言われたことはわかった。何でかわからないけど、とても悔しかったし、悲しかった。あのときから私は「アカの子」になったんだと思う。

 保育園のときから親に連れられて「ショウヒゼイハンタイ」のデモや「あかはたまつり」に行っていたし、月1家で「シブカイギ」があった。当然のように親は赤旗配っていたし、選挙前には電話で「シジカクダイ」をやっていた。私の初めての賃労働は中学生のときの赤旗新聞配達だった。そんなふうに日共はあんまりにも生活に密着していた。子供時代の思い出にはほとんど日本共産党がくっついてくる。

 15歳になってすぐ民青(※日本民主青年同盟の略。15歳から30歳までが科学的社会主義と日本共産党綱領を学ぶんじゃよ)に入った。面白いこともあったけど、なんかしっくりこなくて18になったとき党員になるよう勧められたタイミングでやめた。だから私が「アカ」だったのは15歳から18歳までのたった3年だけだ。共産主義のことなんか何もわかってない。レーニンもスターリンもわからない。いわさきちひろの絵は好き。

 先月思い立ってシナゴーグに行った。ユダヤ教の教会ね。その話はそのうち書かないとって思ってる。そこでユダヤ教についていろいろ教えてもらったあとで、ガザの空爆の話に水を向けたとき彼がいった言葉が、すごく印象的だった。
「パレスチナ人なんて民族はもともといないんです。ファンタジーなんですよ。それを信じた人たちがユダヤ人を殺しにくる。殺される前に殺さないと仕方ないですよね」

 かの地の遊牧民たちが、いつパレスチナ人になったのか、なぜ、パレスチナ人になったのか。私は思う。ユダヤ人たちの眼差しが、行いが彼らをパレスチナ人にしたのだ。そしてイスラエルのユダヤ人たちをここまで強く残酷にしたのはヨーロッパのキリスト教徒たちの差別だったのだろう。私が祖父の言葉で「アカの子」になったみたいに

 すべてのパレスチナ人がハマスに好意的ではないし、シオニズムに反対しているユダヤ人もいる。空爆に反対するイスラエル人も、ナチ政権下にユダヤ人を助けたキリスト教徒もいる。だから総体を批判することはできないし、今そうなってることの責任を今生きているひとに問うことには限界がある。

 わたしが話したいのはパレスチナのことじゃない。私は私の話をしてる。

 昔、アイヌという言葉は「ヒト」を意味していたという。それが民族を意味するようになったのは何故か?彼らは何と出会い「アイヌ民族」になったか?われわれ「和人」だ。和人の眼差しや行いが彼らをアイヌ民族にした。

アイヌ民族と向き合うとき私は和人。沖縄のひとと向き合うときは私は大和の人。それなのに優しく微笑む彼らの前でわたしはどこまでも無責任な旅人だった。

ウポポイでアイヌ民族の女性と話してみたり、シナゴーグでユダヤ人の男性と話してみたり、沖縄でウチナンチュと、橿原神宮で右翼と話してみて、寄り添おうとしてみて、見つけたのはフィールドワーカーみたいな無責任な視点しか持ち得ないじぶんだった。私は日本国民である。でも日本人だということによくも悪くも強い思いが持てない。ワールドカップもオリンピックも興味がない。

たぶん日本人ゲットーに入れられて外国人にいじめられたらそのときは日本人だって自覚が生まれるけどそんなこと人生でなかったし、外国人と話したことはあるけど、言葉の壁を無視すればむしろ外国人のほうが話しやすい。だって、外国人と話すときはふつう日本人のふりをしないでただの私のままでいいから。

ふつうの日本人として求められる諸々のコードが私にはわからないのではないかっていう不安がずっとある。そこに発達障害の問題――ふつうの人がふつうのにできることができない――もからんで子供のころはずっと疎外感を感じていた。生身の人間より本に親しみを感じていた。

大学生になって不思議ちゃんとしての振る舞いを覚えたのでら友達を作れるようになった。在学中に父がパチンコにハマってむじんくんで借金作ったのが発覚したりもしたけど、卒業してすぐ10歳年上の彼氏ができて、26歳で結婚して、出産して、ママ友ができて、パートして、子供を連れて色んなところに旅行にいった。楽しかったなぁ。コロナが流行りだして、心配性の夫が出歩くなって言い出して、それもできなくなってしまった。

夫は中卒だから難しいことはわからないらしい。でもいいやつだと思っていた。バイト先の福祉施設で休憩なしに働く社員が気の毒で労働基準監督署に訴えようと調べているわたしに「余計なことをするな」って冷や水あびせられるまでは。

そのとき、私はアカに戻ろうと思ったんだよ。うっかりアカの子に生まれたからじゃなく、今度こそ必然性をもって自分自身の意思で階級闘争を闘おうって本気でおもったのに。

同僚たちと力を合わせて労働基準法違反の証拠集めをするのは楽しかった。作戦会議も。社員はシンママや持病持ちの人ばかりで、だから私が先頭に立ってやらなきゃと思った。それで気がついたらだれもついてきてなくて、私だけがクビになった。「私はいつクビになってもいいからいっしょに頑張ろう」って言っていた人がだまって私から目をそらした。

 クビになったあとで私は外部労働組合に加盟して団体交渉で契約満了までの給与をもらうことができた。でもその過程で、病気もちのシンママを休憩なしに働かせていた理事長がむかし教職員組合でバリバリ労働運動していたということを知ってしまった。

「そんなもんだよ」理事長の昔を知る外部労組の相談員はうそぶいた。「君だって僕だって経営者になればおなじことをするよ」それから私は慈善とか闘争の皮をかぶったサヨクが嫌いになってしまった。もちろん「保守です」「普通の日本人です」と自称しながらカジュアルにヘイトを口にするネトウヨも好きじゃない。右も左も一瞬前の自分もしらじらしくて吐き気がする。

日共以外の左翼に接触してみたりもした。でも彼らの多くは共産趣味者で、純喫茶のクリームソーダを愛でるようにゲバ文字やソ連国旗を愛でているだけで、彼らの苦しみは私の苦しみと似てるけど違うみたいだった。

本気で革命を志す若者もいて、そのひたむきさには惹かれるけど、私は暴力革命にも革命のあとの社会にも夢が見られない。

そうやって、つまり私は40年ちかくかけて、自分が孤独で寄る辺ない存在だということを確認した。そうやって焼け跡みたいになったきがした世界には、でもそれなりに大切なものがあって、信じたり崇めたりする対象ではないけど愛すべき人がいて、案外他の人たちも、こういう荒野を生きているのかもしれないし、動物はアイデンティティとかなくても元気に生きてるし、これでいいのだなんて安易なこともいえないけど、死ぬまで迷子の宇宙人みたいなものかもしれないけど、いいライフハックを拾ったら君に見てほしいし、死ぬまでは生きるから、見てて。

えっいいんですか!?お菓子とか買います!!