地球は群青日和
大雨予報があったというのに、あたしは傘の一本も携えずに通学路を歩いていた。昨日のオキタ先輩の言葉が妙に、頭から離れなかったのだ。
「おれ、地球を離れるわ」
進路相談のとき、担任の先生に伝えたそうだ。宇宙に行けばコロニー建設の仕事がごろごろあって、体一つで大金を稼げるからと。
「へえ、そうなんですか」
クラスの男の子も似たことを言っていたし、去年お金持ちの子が何人か火星に移住した。地球に住むというのが、もはや時代遅れだった。別に何の変哲のない、普通のことなんだけど。
「ミトはどうするの」
オキタ先輩はトウモロコシ畑の一点に視線を落としながら、頭の後ろを掻いていた。天然の太陽に焦がされた、健康的な腕。あたしはうっとうしい黒髪を耳にかけて、その腕をぼんやり見ていた。夏の夕陽が、二人の影に赤を射す。なぜか痩せた胸が痛い。
「わかんないです」
地球に執着なんて、ない。でもだからと言って離れる理由も、ない。進路のことを考えると頭が痛い。もやもやしたものが渦巻いて、朝になっても晴れなかった。
草いきれがむっと濃くなる。熱にうかされたみたいな頭。雲が喉を鳴らして近づいてくる。トウモロコシ畑の一本道が、いつもより長い。
「ふられちゃうな、これは」
ぼたっと雨粒が落ちたと思ったら、すぐにどしゃ降りになった。雨は海のにおいに似ている。しずくが体温を奪い、気だるさを誘う。
「行かなくても、いいかな」
重いスニーカーを引きずるように、あたしは学校とは反対方向に向かっていた。
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ぬれねずみになってしまったまま、よろよろと洗面所に行き、タオルで体を拭く。ずぶ濡れの制服やくつ下やキャミソールを脱いで、部屋着に着替える。パパもママも仕事でいない。
「あーあ」
声はよわよわしく漂い、消えた。外は豪雨。年中こんな天気が続くから、みんな離れていくのだ。冷蔵庫の牛乳をコップに注ぎ、一気に飲み干す。得体のしれない胸のもやもやがしけた空気を吸って、重みを増していた。
「そういえば」
今朝のパパとママはやけにすっきりした顔をしていた。二人が夜遅くにこそこそしていることをあたしは知っている。畳の部屋で何かをしていることを。
押入れを開けて、中をあさった。裁縫箱やら使わない空箱やらを出して、奥にあるものを掴んだ。持ち上げるとくすんだ銀色の機械と、穴がたくさん開いた機械がコードにぶら下がってついて来たので慌てて手をそえる。
「ミュージック」
震える手でそっと畳の上に置く。ミュージックを所有することがいけないことだということは知っていた。雨脚は強い。家の中にいるのに、不安だった。なぜこんなところにミュージックが? 雨粒は落下し、壁を叩き、屋根を滑る。もやもやが大きくなる。心細い。雨に呑まれてしまう。沈黙に、溺れてしまう。
ぴかっと、閃いた。続いて野蛮な、乱暴な音が落ちた。思わず真ん中のボタンを押した。押した後に、しまった、と思った。機械が作動する音が、小さく聞こえ、身動きが取れなくなる。
新宿は、豪雨
あなたどこへやら
今日が、青く冷えてゆく東京
雷のように激しく、でも心地のいい温かみを帯びた音が走る。体が火照る。
戦略は皆無、わたしどこへやら
脳が水滴を奪って乾く
内にある感情が形を持って暴れる。秘密も、嘘も、不安も、角を持って変形して、ぶつかり合う。先輩のことも、進路のことも、あたしの中でぶつかり合う。
「ミトはどうするの?」
トウモロコシ畑。浅黒い肌。夕陽を受けたYシャツ。オキタ先輩の悲しげな表情がフラッシュバックする。目頭が熱い。
「わかんないです」
あたしの情けない声が再生される。あの景色の中で、目をそむけたのはいったい何? 本当は何を求めていたの? 知ってる。本当は知ってたんだ。言葉にできなかっただけで。言葉を持たなかっただけで。
ちゃんと、教育して叱ってくれ——
これが、情熱。青くゆらゆら燃えて、胸を痛いくらい焦がしている。そのまま畳の上に倒れて、仰向けになって、天井を見た。まぶたの上に腕を乗せた。冷えた肌が目に心地いい。
「やだなあ、先輩と離れるの」
豪雨は止んでいた。午後の夏風は違うにおいを運んできた。
作中に出てきた楽曲
東京事変「群青日和」
お金が入っていないうちに前言撤回!! ごめん!! 考え中!!