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「さよならテレビ」について(個人的感想文)

見ましたよ。ようやく。
見たい見たいと思ってたけどなかなか見られなくて
東海テレビのドキュメンタリーをよく放送している日本映画専門チャンネルで
映画版を放送したので録画して見ました。

とても興味深い内容でした。以下ネタバレ含みます。

正義感が強くTVジャーナリズムとは何かを常に考えているが実際は営業案件みたいなニュースネタばかりやらされている契約社員の澤村さん。

ニュース番組のメインキャスターに抜擢されるも、個性を出せないでいる男性アナの福島さん。実はあの「セシウム事件」の当事者でもあることが途中で判明する。

テレビ愛知から東海テレビの報道に新規に契約できた渡辺さん。ミスを繰り返しいかにも仕事ができなさそうなアイドルオタクという絵に描いたような若手男子。

なんとなくこの3人が主人公のようになって彼らの葛藤を中心にストーリーが進んでいく。怒声の飛び交う報道フロア。気をつけていても起こる放送事故。配置転換や契約終了など。最初はローカル局の報道番組でそんなになにか起こるのかなと思って見てたけどなかなかドラマチックになっていき、ラストに向かっていく。予定調和的でもありフェイクドキュメンタリー的でもあり、賛否両論が起きるだろうなと思える内容でした。

僕も制作会社からの出向社員としてTBSやテレ東の報道局で常駐して働いていた経験が何年もあるので、ここで映し出されている状況はリアルだったし、なんか僕がいた頃とそれほど変わらないなとも思えた。変わったのは働き方改革で残業にメスが入ってきたことや、報道倫理の問題が想像以上に昔より大きく現場に横たわっていたことぐらいか。

3人の中で1番共感するのは澤村さんのジレンマ。本多勝一がある本棚。ああ俺と同じだ。何度も挿入される子供たちのテレビ見学みたいなシーンで報道の使命とは弱者の味方であり権力の監視であるという部分に、澤村さんはまさに寄り添うように働いている。共謀罪の成立は国民主権への脅威であるとして実際にマンション建設反対運動で提訴された男性への取材を通して世に伝えようとしている。印象的なのは「共謀罪」を「テロ等準備罪」に言い換えたて報道している局は政府の言いなりだと指摘する彼の目の前で、まさに言い換えられたかのようにテロップが無情にも出される。その時の彼の脱力感は報道にいた時に僕自身何度も味わった既視感のある風景だ。
一年で契約を切られた新人の渡辺さんに対してプロデューサー、報道デスクの1人が「皆にナベチャンと愛された渡辺くんが卒業します!」と送り出したときに「卒業」という綺麗事の挨拶に猛烈に反発する澤村さん。すべてが撮了したときに、ディレクターに感想を聞かれて「なんとなくうまくまとめてきれいに終わってそれでいいの?」と聞き返す澤村さん。まるであの頃報道フロアで「これでいいのか」と自問自答してた頃の俺と同じ人が目の前にいると思ってしまった。

子供達に報道の使命を語り、周年挨拶で社長がテレビの使命を語るのと裏腹に毎日視聴率の分計(1分ごとの視聴率の推移がわかる表)に一喜一憂する人たち。
言ってることがダブスタみたいだけど、報道番組といえどスポンサーあってのコンテンツ。実際、天気予報枠からスポンサーが1社降りたことが本篇の中でも判明する。そりゃ目先の数字にもこだわるわけだ。

アイドルオタクの渡辺さんは、インタビューも下手だし、レポートもうまくなく
カメラマンからもう少しちゃんとやれと注意される始末。若手の頃って技術さんが
こわいんだよな。また原稿を書いては固有名詞のルビを間違えてデスクにどやされ
ようやく実現した自分の企画取材物では放送直前に取材対象者から顔出しNGと言われ見送りに。あげくの果てには1年でクビになり、取材Dに金を借りるシーンまで写し出されてしまう。こんな姿まで撮られて再就職できるのか心配になってしまうほど。報道の使命がどうだとかこうだとかの意識は彼には特にない。アイドルが好きでなんとなくテレビ業界に憧れて入ってきてしまった人であり、そんな人が業界にはいっぱいいるはずで彼はただそんな人たちのひとりにしか過ぎない。最後は転職した先のテレビ大阪でまたゼロから頑張る姿で終わる。

見ていて気の毒なのは福島アナもそうだ。企画のフリやウケも逐一細かく原稿にしてそこから逸脱することはない。タイムキーパー(TK)さんに「あそこまで原稿から離れられないのはよくない」と指摘される始末だがスタイルは変わらない。
いつも真面目。スタジオを飛び出し現場レポをしてみてもなぜか反省しきり。自分がもともと参加しているお祭りの神輿を紹介することに「手前味噌みたいじゃないか」と何度も逡巡する。いつも煮え切らない彼に対して取材ディレクターが苛立つように「アナウンサーとしてリスクを冒してでも自分の個性を出さないのはなぜか」と詰問しても「僕はそういうことはできない」「一体何を僕に聞きたいのか」と彼もまた苛立つ。かたくななまでのスタイルの原点となっているのがこの映画の6年前に起きた「不適切テロップ事件」、いわゆるセシウムさん事件で、彼はそのときにスタジオでアナウンサーをしていたことが途中で明かされる。
日本中で話題になったこの事件で彼はカメラの前で謝罪し、検証番組にも出たが正直彼になんの罪もないことだけど顔出しする立場としてつらい役回りとなった。

人間がやる以上、ミスはおこり、放送事故は繰り返す。彼がキャスターをつとめるニュースでまたしてもトラブルが起きる。彼が日に日に憔悴していく様子がかなり意図的に紹介される。
やがて彼はメインキャスターをはずされる。数字があがらなかったのだ。メインをはずれることが決まってからはなにか吹っ切れたように積極的になる福島さんの姿にTKさんが「今頃元気になってもさ・・」みたいに苦笑いするのが印象的。そしてスタートした新体制では現場レポのワンコーナーを任され、見方によっては降格処分ともみえるが、彼はそこは甘利気にしていないようで、むしろ重圧から解き放たれて本来の明るさを取り戻したかのような風景が映し出される。まあ、それもまたある意味予定調和的な大団円と言えなくもないのだが。

しかし予定調和的と思ったのも束の間、最後の方になるといろんな舞台裏がだんだん明らかになる。澤村さんも渡辺さんも主人公として描かれることは本人に個別に通達してあり、自然に見えたシーンも取材ディレクターからの働きかけで実現したものもあったり、なによりある偶然に見えた再会のシーンそのものがこのディレクターの依頼で実現したものだったり、なによりも、このディレクターが、デスクが怒鳴っているシーンなどを編集中に「最高だ!」と歓喜しているところが入っているわけで、このドキュメンタリーは最後にきてようやくこういうことなんですがどうですか?と僕たちに何かを聞いてくる。

あなたの見たものはどこまでが本当の現実だと思いますか?

この手法は森達也さんが以前にやった「ドキュメンタリーは嘘をつく」のような役者までは仕込まないもののかなり似たものを感じた。つまり「まったく真実だけをつなぐドキュメンタリーはありえない」「取材者の主観や思い込みや演出意図は必ず反映されるし、されるべきだとも思う」という取材ディレクターの強い意思を感じるものになっているからだ。

そういう意味ではPRとかにも出ている「衝撃のラスト」は言い過ぎだとしても、最後まで見てると多くの人がもやもやした気持ちにさせられることは間違いない気がする。それが狙いなのでしょうね。

とまあこういう映画でした。最後に僕の感想を書いて終わります。

僕自身、自分の制作スタイルとしてはドキュメンタリー手法を多用し、テレビでもまたその後転職したB2Bの分野でも一貫してリアルを追求してきた自負がある。その過程の中で森達也さんとの出会いがあり、ものすごく影響を受けたし、報道時代から原発、教科書問題、部落差別、言葉狩り問題など当時の上司から呆れられるくらいハードなテーマを取り上げてきた経験から、自分なりにこういうドキュメンタリーに対しては感じることがあります。

作品としては純粋に面白かった。エンターテインメントとして完全に成立している。魅力的な人物描写や飽きさせない展開、ディレクターの強い信念や力量を感じられた。素晴らしいと正直思います。

ドキュメンタリーの定義(どこまで客観的なのか、演出の範囲とは)が本編終了後のディレクターインタビューで語られているのでこれも興味深く見たけれど、僕がこの人と違うところをもしも1つだけあげるとすると僕のスタイルが一言で言うと「現場では作為せず、撮れたものだけで勝負する」ことでしょうか。

どういうことかというと、撮影の時はこちらから過剰に仕掛けず、できるだけ相手が自然にありのままで過ごせることを意識する。ピンマイクが仕込まれているとか偶然を装おった演出や仕込みをせず、相手がカメラを気にならなくなるまでひたすら撮り続け、ひたすら質問し続けるのが僕の取材スタイルで、じゃ演出はしないのかというとそれは多くの場合は編集段階、構成段階で行うわけです。
撮ってきた膨大な素材の中から何のシーンを選択し、どんなエピソードにするのかがまさに演出だと思うし、そういう意味ではよく「切り取り」と批判されることの多い作為的な編集をまさにしているとは思います。でもそれが僕の流儀です。

なので、このディレクターさんが、澤村さんとかつての取材対象者が再会するシーンであらかじめ依頼をかけていたり、マイクを仕込んでおいたりは僕は(多分)しないです。また、渡辺さんがお金を借りるシーンは、あれが本当に彼から出てきたシーンなのだとしたらなおさら撮らせないと思うし、使うのであれば「なぜ仲間ではなく取材ディレクターの自分から借りるのか?」を聞くだろうなとは思います。なので僕はこのディレクターと同じ番組でDやPとして一緒に番組創りしてたら、きっと何回も衝突したり喧嘩になってるかもしれません。それは自分のスタイルが確立していてそれについてとやかく言われるのを互いに嫌うだろうから。元NHKの相澤さんの本を読んだ時に感じた「すごいしこの志は本当に尊敬する。でも友達にはなれないし、性格的にも好きではないタイプの人だろうな」に近いと言えるかもしれないけども。

ネットの批評を見ていると結構厳しいのもある。そんなものかという意見もある。
これは今のテレビを取り巻く環境の違いも関係している気がする。
報道やドキュメンタリーの世界の末席にそれなりに長くいた者からすれば、テレビ報道の今が見えるし何が起きているのか、何が問題なのか、その一端を知ることができたから面白かったと言えるが、テレビ報道に対して(特にネット民が)まるで期待してないことを痛感します。報道の使命とは権力の監視であるというのは洋の東西を問わず基本中の基本なのだが、「マスゴミにそんなことは期待してない」「監視は我々がする。報道は事実だけを伝えればいい」という意見を本当によく見かける。僕が子供の頃は「テレビで言ってたから本当だ」と信じる人が多かったがいつしかテレビには誰も期待も信頼もなくなってきた。テレビ報道に身を置いてた者からすれば残念なことだけど。

岸田総理の支持率が高い。維新はすでに連立政権かというくらい自民党に寄り添っている。野党第一党は代表が替わってもまるでパッとしない。そんな時代だからこそ報道の使命という言葉は大事だと思う。先日読んだTBS金平さんの本には、筑紫さんが「少数派であることを怖れない」「多様な意見を尊重し提示する」「権力の監視を怠らない」ことを皆に伝えていたと書かれているけどこういうジャーナリストたちの志と、現代の報道の現場が乖離していないことを祈りたい。

というのもネット上でのメディア論みたいなことを書いている人の中には元テレビマンがわんさかいるのだけど、その1人がこの映画のディレクターと対談して「僕が1番嫌いなのは澤村さん。なんかジャーナリズムとは、みたいに上段から振りかざす人。ああいう人がいたら徹底的に討論しちゃう」みたいなことを書いてた。報道の使命とは何か、ドキュメンタリーって何か、それを真面目に考えている人がなぜか同じテレビマンに毛嫌いされるのはまさに現代のテレビ報道が大事にしなければいけないことに対して「別におもしろけりゃいいじゃん」側の人たちの大きな声が覆い被さっているのだなと感じる。娯楽番組はそれでいいのだ。問題は報道なのだが。。

それにしてもよくこれを取材でき、放送でき、劇場で流せたなぁ。
そのことだけをとっても東海テレビのものづくりの凄さがわかるというもの。
Netflixがよく民放にはできないものをつくるよねと評価されるし
実際にそうだけど、志のある作り手はテレビメディアの中にも
さらには地方局の中にもいるということは救いだと思う。

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