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コミックマーケットを追って20余年 「マンガ・アニメの表現の自由」は社会運動から歪んだ形の運動に

「これは、大変な仕事を受けてしまったな」

 8月半ば、中国地方の山間部の地方都市で取材の最中、清田編集長からの電話を切った後、私はふと陰鬱な気分になった。

「恒例ともいえるコミックマーケットや表現の自由の現状について、書いて欲しい」

 それが、今回依頼された原稿のテーマであった。年2回開催されるコミックマーケットに、足を運ぶのは私にとって恒例行事となっていた。様々な個々人が思いを綴る同人誌。その中には、数多の行列が連なる人気の描き手もいれば、利潤が目的ではなく、とにかく自分の表現したものを多くの人に読んで欲しいと切なる願いを込めて出展する者もいる。

 とりわけ、ルポルタージュを書くことに屹立している私にとって後者は魅力的である。そうした人々の溢れ出す情念を丹念に聞く。そこから生じる、共感、反発、自省……私の心に照射された情景をルポルタージュとして仕上げていくことには価値があると、私は信じて止まない。

 けれども、社会に提起するべき問題や、多くの人が興味を抱くような事象についてはどうだろう。この夏も、のべ50万人もの人々が集まったコミックマーケットには、当然、そうした要素も数多く存在している。

 もっとも耳目を集める問題のひとつが、2020年の東京オリンピック・パラリンピックをめぐる問題だ。開催時、会場である東京ビッグサイトはメディアセンターとして利用されることが決まっている。ところが、これは様々な問題を生み出している。

東京ビッグサイト問題は八方ふさがり

 現在、日本国内。あるいは首都圏に、東京ビッグサイトほどの規模のイベント会場というものは存在しない。そのため、メディアセンターの準備施工期間から撤去までの期間。具体的には2019年4月からは半分以上。 

 さらに2020年5月から9月までは施設全体が使用できなくなることが、会場を利用する様々な分野の事業者に提示されている。このこと、コミックマーケットのみならず、様々な業界から怒りを呼んでいる。東京ビッグサイトでは、年間を通して、様々な産業の展示会や見本市が開催されている。業界によっては、東京ビッグサイトでの催しが、新規顧客獲得のほぼ唯一の手段となっているものもある。

 そうした業界にとって、利用が制限され、催しがなくなってしまえば途端に経営の危機が訪れる。その周辺産業も同様だ。見本市などでのブース設置を担うディスプレイ業者。コミックマーケットが、収益の大半を占める同人誌専門の印刷所。それら東京ビッグサイトの利用制限に危機感を抱く人々は数限りない。

 これらのことは、既に大手メディアも報じる問題になった。東京ビッグサイト側も、2020年東京大会の組織委員会と協議し利用制限期間をギリギリまで短縮。青海に仮設の展示棟を設けるなどの代替案を出している。

 けれども、利用制限が各種の業界にもたらす影響についての不安は解消されていない。都議選を控えた今年6月には、実際に利用制限によって損害を受ける展示会関係者によって組織された「展示会産業で働く人々の生活と雇用を守る会」によるデモも開催された。このデモは、展示会には欠かせないディスプレイ業に携わる人々を中心に実施されたもの。

 中小企業が多くを占めるディスプレイ業では、少なくて3〜4割。中には8割が東京ビッグサイトの催しが占める。利用制限により、催しが減れば即座に事業が破綻しかねないほど催しが深刻だ。同人誌印刷所も同様だ。ある業者に尋ねたところ、もしコミックマーケットが開催されないとすれば、年間150億円といわれる市場の3割近くが消滅。複数の印刷所が破綻に追い込まれるのではないかという。

 この問題は、今年に入り大手メディアも取り上げるようになってはいるが、まったく事態は進展していない。既に、国際的な規定事項となっている東京ビッグサイトのメディアセンターとしての使用を覆すことは、不可能に近い。第三セクターである東京ビッグサイトの「株主」である小池百合子都知事は、黙りを決め込んでいる。都議選の最終日に、秋葉原駅まで開かれた、自民党の最終演説に登壇したMANGA議連会長の古屋圭司衆議院議員は、この問題の解決を言及したが、なんら具体的な案は示されていない。

 これまで、幾度かこの問題について取材をした。そこからは、様々な思惑が見え隠れする。利用制限で存在を被る人々の中に、死活問題としながらも「オリンピック反対」とまではいうことのできないジレンマ。「なるようにしかならない」と、代替案を前提に事態を静観する各種イベントの主催者。そして、問題の中に票田を見いだす政治家たち。それらが複雑に絡み合いながら、ただ時だけが流れている。この群像劇を、ルポルタージュとしてまとめるには、まだ時が早いような気がしている。

2010年・東京都青少年健全育成条例改定問題の真実

 では、コミックマーケットを軸に論じられる、マンガ・アニメなどの「表現の自由」については、どうだろう。かれこれ10余年にわたって、この問題をテーマに取材をしてきたが、私自身はもう取材して書くべきことは、ほぼなくなったと思っている。

 7月に、中編『29万票の金利~山田太郎と「表現の自由」の行方』を、サイゾーの運営するニュースサイト「おたぽる」で発表した。昨年の参院選で「マンガ・アニメの表現の自由」を訴えて立候補し、29万票を集めながら落選した山田太郎という人物を通して照射したのは、あらゆるものがタコツボ化している現代であった。

 2010年の東京都青少年健全育成条例改定問題を通して「マンガ・アニメの表現の自由」は、ひとつの社会運動として、勃興を見た。けれども、その後現在の7年間の間にあったのは、歪んだ形での運動の進化であったと思う。

 ずっと、忘れることのないあの運動の中でのエピソード……2010年の12月。二度目の改定案を東京都が上程し、当初は反対していた民主党が切り崩されている最中のこと。なかのZEROの大ホールで開かれた条例反対集会で、登壇した浅野克彦都議(当時)は、懸念されていた問題点は解決されたとして、賛成に回ることを檀上で表明した。その演説を聴いていた時、傍らにいたフリー記者の長岡義幸が呟いた。

「誰も野次を飛ばさないんだ……」

 浅野には自分の信念があったのだろうから、そのことを批評しようとは思わない。ただ、7年という時を経て思うのは、多くの人が「マンガ・アニメの表現の自由」というものを本気で考えていなかったこと。ただ、自分たちの気持ちよい世界の現状維持だけを望んでいたということである。

 時の流れの中で、ただ、その部分だけが先鋭化しているように感じる。マンガ・アニメの愛好者だけでなく、あまねく世の中においてである。様々なタコツボに籠もる人々が、自分の気持ちよい世界を維持するに適さないものを、社会正義を装って攻撃しつぶし合う様は、ここ数年の間に極めて盛んになった。

 私自身が体感して思う、そのもっともたるものは「反ヘイトスピーチ」を主張する人々であろう。目を皿のようにして批判すべき言葉を見つけては、攻撃を繰り返す人々は、昨年あたりまで高揚感に酔いしれ、祭りを楽しんで去っていった。

オタクは社会から差別されてきた……のか?

 では、「マンガ・アニメの表現の自由」を拠り所にしていた人々はどうだろうか。マンガ・アニメが政府や権力者までもが利用するようなものになった現代、あちこちで自治体や企業のPRにいわゆる「萌えキャラ」が用いられる事例が増えた。それと同時に、そうしたキャラクターを嫌う人々が「女性差別」などの理屈を考案して、攻撃する事件も幾度か起きた。

 そうした経験を経て批判に対して「フェミ(フェミニズム)」「ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)」というレッテル貼りをして反撃する主張というものも、よく見かけるようになった。まだ「マンガ・アニメの表現の自由」を声高に主張する人の数が少ないゆえにか、それらの言葉を目にするのは、主にネット。とりわけTwitterでは、毎日のようにタイムラインに表示されてくる。そして、さらに主張は先鋭化している。

「過去、オタクは社会から差別されてきた」と唱え、LGBTのごとく二次元、すなわちマンガやアニメで描かれたキャラクターにしか性的な興味を持たないことを、性的指向として社会が認知すべきとまで。これまでの、取材の中でそうした主張を、熱を持って語る人を見るたびに、私の中には反発でも違和感でもない感情が生じる。

<いったい、この人はなぜこのような言葉を信じて疑わない世界へと、歩みを進めてしまったのだろうか>

 日々、取材を繰り返す人生の中で、私はいくつもの共感すれば、より楽しいであろう趣味嗜好や生き方に出会う。そこに到達している人は、実に幸せそうだからである。

真に自由な描き手を訪ねて

 コミックマーケットは、そうした人との出会いの場でもある。私が、かれこれ15年あまり、必ず出会うエル・ボンデージという描き手がいる。3万をゆうに超える同人サークルが出展する中にあって、彼はまごうことなき自分の描きたいものを描き続けている人物である。

 主にパロディを描く彼には「オンリーワン」などと安い言葉では表現しきれない情念が紙とインクから燃え上がっている。藤子・F・不二雄の『ジャングル黒べえ』と『ドラえもん』を掛け合わせた物語を描く作品では、ジャイアンは生きたまま脳みそを食べられ、のび太は釜で茹でられ、しずかちゃんは黒べえに「黒べえ、犯した人間、食べる、はりきる」と頸動脈をかみ切られて内蔵をひきづり出されて喰われる。

 この夏のコミックマーケットで上梓した作品では『ワイルド7』の登場人物たちが「この国をアメ公が永遠に支配できる密約が結ばれていたなんてウソだろ」「おれ達が悪党を処刑してきたのも……結局はアメ公の指揮下だったなんて茶番だぜ!!」などと独白をしながら、女性を犯すのである。

 コミックマーケットに来場する参加者が、手に取るような流行の作品を用いたパロディでもなければ、性的興奮を得られるような作品とも思えない。そうした作品を80年代からずっと書き続けてきた男に、なぜ、こうした表現を重ね、発表し続けているのかを問うたことがある。

「愛情表現といえば、かっこいいですけれど、実は自分のヌキネタなんです」
 常に、ヒロインが憎くて酷い目に遭わせているのではない。描かれているのは、すべて自分が好きになったヒロインなのだと、彼はいう。

「結果的に、こういったヒロインを描いていますが気に入ったヒロインがいたら、誰でも描きます。考えるよりも描きます。でも流行のヒロインは、ほかの人もやってるから……」

 彼の作品の中で特徴的なのは、背景に描かれた木目や、ヒロインを縛る縄目の紋様である。21世紀の今でも、ネットもメールもやらない、この男は自らの手で腱鞘炎になることも厭わず、興奮しながら、それを緻密に描き続けているのだという。そこには、幸せ意外なにものもないと思う。

 そして、私は、そのような自分の世界を見つけることができた、この男を羨ましく思うのだ。

垣根など存在しない男の娘たち

 もう一つ。今回のコミックマーケットでは出展する知人の同人サークルを手伝った。サークルの名前は「おちんコス」。女装した男の娘のコスプレ写真集(と、動画)のサークルだから、こういう名前である。

 ひとつ私が興味を持ったのは、いったいどういう人が買いに来るのだろうということであった。それは、新鮮な体験であった。ごくごく普通に見える人が次々と買い求め、早い時間に完売したのである。

 以前から、アダルト向けコミックの中で、女装もの・男の娘もの・女体化ものといったジャンルが拡張していることを感じていた。それらは創作物の世界だけかと思ったら、そうではない。「可愛いもの」「エロいもの」を求める欲求を出発点として、偏見のようなものは一切存在しなくなっている。

 そして、写真集の被写体となる彼女たちも同様だ。もともとの性的指向への気づきや「可愛くなりたい」など、はじまりは様々。いずれにしても、昨今のメディアで捧持されるLGBTの権利だとか法整備のような、社会運動のようなものには目もくれず、自らの欲求を解決する場を築きあげている。そんな作品を製作している知人のもとには、ひっきりなしに「私も出演したい」というメールが届くというのだ。

 このような人々に出会った時、タコツボ化し、他者に敵意を向けながらタコツボの中の自分たちの世界だけを守ろうと立て籠る人々。「マンガ・アニメの表現の自由」を唱えることを存在理由としているような彼らを、いつまでも取材のテーマにしていてもしようがないと思った。

維新か革命戦争をやったほうがマシである

 とりわけ、その気持ちを強くしたのは「マンガ・アニメの表現の自由」を叫ぶ人々が政治家たちへの依頼心である。今や、様々な政党にマンガ・アニメを愛好していることを表明している議員だけでなく「オタク」であることを自認する議員まで現れた。タコツボに籠もる人々は、ただそれを理由に無批判に支持を表明する。

 ひとつの例が、昨年の参院選で当選した自民党の小野田紀美参議院議員を巡って見えた現象である。

「オタク」を自称するどころか「二次元にしか興味がない(性的指向がない)」ことを公言する人物を、「マンガ・アニメの表現の自由」の多くが「こちら側の人間だ」と雨あられと賞讃を浴びせた。共謀罪に賛成し、この法律案に反対する主張を「ネガティブキャンペーン」とまで罵倒する人物を、である。

 私自身、共謀罪には賛成はしない。ただ、表明しておきたいのは、実態は体制を補完する勢力に過ぎない自称「リベラル=体制メンテナンス派」が主張するような民主主義だとか護憲だとかの低次元ではないことである。「リベラル=体制メンテナンス派」に堕ちるくらいなら、維新か革命戦争をやったほうがマシである。

三文文士やポンチ絵描きの矜恃はどこに

 人類が文明を持った時から、民衆に支持される文化というものは体制の埒外に存在してきた。ひとたび権力の中に取り込まれた時に、それは次第に輝きを喪っていく。だから、三文文士とかポンチ絵描きが(それを愛好する人も含めて)、権力者に尻尾を振ったり、賛意を示すほど愚劣なことはない。そう、私は考えている。

 けれども「マンガ・アニメの表現の自由」を考えた時に、そこに思い至る人は少ない。先の都議選でも、インターネット上ではマンガ・アニメ文化に理解のある候補者。「表現の自由」を守ることを表明してくれる候補者の情報がいくつも流れていた。以前、取材の時に、中央の指示通りに都合の悪いことからは、とぼけて逃げまくった日本共産党の候補者が「表現の自由を守ってくれる候補」だと賛意の繰り返し紹介されていたのには、失笑を禁じ得なかった。

 もちろん、このようなことを考えている私のほうが少数派である。ともすれば、病人かなにかの誹りを受けることも承知している。むしろ、ルポライターとして旗を立ててる以上、それは当然のこととして受け止めなければならないと思う。

「表現の自由」をテーマにしている物書きというのは、私のほかにも何人もいる。その中には、前述のような政治家を「オタクだから味方だ」などという前提のもとに、ちょうちん記事を描く者。挙げ句の果てには、生業を放棄して、特定の政治家を選挙で応援してしまう者も見た。

 そんな、高々と提灯を掲げて恥じることのない御用ライターを見るたびに、自分もともすれば、そちらに堕ちるのではないかと恐怖し、しばし自省するのである。

 この世に「正義」というものは、あるのかも知れないけれども、それは固定的な決まり切ったものではない。人の思いや欲望の数だけ「正義」もある。コミックマーケットは、マンガやアニメのお祭りを超えて、そういうことを教えてくれる場なのではないかと、思っている。そして、私自身、自分が「マンガ・アニメの表現の自由」というテーマに依拠しすぎてきたことを、改めて教えられた。

 このテーマに関して、今後も自分がもっとも精緻なルポルタージュを生み出していけるという自負はある。けれども、それよりも早く取材して書きたいテーマも沸きだして止むことはない。ルポルタージュには、とかく時間がかかる。掲載してくれる媒体は少ない。原稿料は安い。ここしばらく、評価の高い原稿はだいたいが赤字である。それでも、どうにか財布の小銭をやりくりして取材は進む。そこまでして、書きたい作品でなければ、なんで読者に共感してもらえるものか。


(初出:『旬刊 出版ニュース』2017年9月下旬号 http://www.snews.net/news/1709c.html)

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