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炒飯 4

厨房にいる男性ロシア人店員に目を向けました。

皿洗いをしている彼はどんなに少なく見積もっても体の幅が私の2倍近くあります。

規格が違いすぎます。

日本で出会った多くのロシア人男性も私の2倍の体の持ち主で、牛丼特盛を軽く3杯平らげるような規格崩壊っぷりでした。

彼らにとって重箱に目いっぱい入ったチャーハンでさえ、おそらく質素倹約の域に入るのでしょう。

ですが私にとってこのチャーハンの量は明らかに過多なのです。

多いと見るか、少ないと見るか。

チャーハンと一言で言っても人によってその見方が変わってくる。

これほど単純すぎる価値観の違いというものを目の当たりにしたことはありませんでした。



結果から申しますと、完食しました。

残すという選択にどうしようもない抵抗を感じ、それから30分ほどかけて、水で無理やり押し流すようにチャーハンを胃に収めていきました。

(水が有料という調査不足が招いた驚きの事実に白目を剥くことになった話は長くなりそうなので割愛させていただきます)


空となった重箱の底では溜まった油がキラキラと輝いていました。

見ると食べ残しのチャーシューがひとかけら。

四角い重箱の底の油の中に居座るチャーシュー、まるで井の中の蛙ではありませんか。

そしてその蛙は私でした。

外の世界のことを全く知らなかった私は、異国での初めて食事で自分の世界の狭さを実感したのです。

私はそのチャーシューを箸でつまみました。

チャーシューは滑ることなくおとなしく箸の間に挟まり、私は口へと運びました。



ロシアでの最初の食事、忘れられないものです。

その後ハバロフスクでは色々食べたのですが、やはり思い出として最も強いのはこのチャーハン。

「初めての」とつくことはやはり特別であり、ある時ふと懐かしさを思い出させてくれます。

人生の中で起きる様々な初めて。

大人であると自覚し始めてからもうしばらく経ちますが、今後「初めて」との出会いはいくつあるのでしょう。

それを意識することほど、人の一生の短さを知ることはないのかもしれません。

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