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ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』三部作を読む

この書名にある「神」とは何者でしょうか。
私が読む限り、この著者は、ハイヤーセルフとの対話をしています。

真実を生きるとき、著者は、ハイヤーセルフとのコミュニケーションを通して、思い出すように、感情や思考、経験も、共同創造しています。感情や思考、経験も、個人が勝手に創作しているわけではないのです。

ハイヤーセルフとのコミュニケーションを、あえて言葉で実現しようとするところが、この書物の面白いところであり、貴重なところです。

言葉はただの音にすぎない。感情や思考や経験の代用だ。シンボル、サイン、しるしでしかない。真実ではない。ほんものではない。言葉は理解の助けにはなる。あなたがたはものごとを、経験によって知ることができる。しかし、経験できないこともある。だからわたしは、知るためのほかの手段を与えた。それが感情と呼ばれるものであり、思考と呼ばれるものである。

ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話1』第1章p.23

また、著者は、ルドルフ・シュタイナーが創設したウォルドルフ・スクールにくわしいのだが、その学校制度は、ハイヤーセルフとともに成長するあり方を、模倣しているのかもしれません。

ウォルドルフ・スクールでは、先生も幼稚園から小学校まで一緒に進級していきます。子供たちはずっと、同じ先生に教わるんです。次つぎにかわるんじゃなくてね。子供たちと先生に、どれほど強い絆が育つか、想像できますか? それにどんな価値があるか、わかりますか?
先生たちは、子供たちをわが子のようによく知ることになります。子供たちも、ふつうの学校では考えられないほど、先生を信頼し、愛するようになります。子供たちが卒業すると、先生はまた最初の学年に戻り、べつのグループの子供たちと一から始めます。ウォルドルフの先生は、生涯に四つか五つのグループの子供しか教えないでしょう。でも、その子供たちにとっては、ふつうの学校の先生とはくらべものにならないほど、大切な意味をもっています。あそこの教育では、そういうパラダイムのなかで共有される人間関係、愛は、先生が教える事実と同じくらい大切だと考えているんです。家庭の外のもうひとつの家庭のような学校ですね――。

ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話2』第9章pp.233-234

ところで、著者は、高度に進化した存在が、どうやってコミュニケーションするのかを神に聞いているので、その答えの一部を救っておきます。

あなたがたが言うような「言葉」が発音されることはほとんどない。高度に進化した知覚ある存在はすべて、「テレパシーでコミュニケーション」する。それどころか、種どうし――あるいは同じ種の者どうし――の関係がどこまで進化しているかは、感情や欲求や情報を伝えるのにどこまで「言葉」を必要とするかで測られるくらいだ。
聞かれる前に言っておくが、人間にだってできるよ。そういう能力を発達させた者もいる。事実、何千年も前には、それがふつうだった。あなたがたは、原始的な発声――実際には「騒音」――を使ってコミュニケーションするところまで、後退したのだ。だが、もっとはっきりした、正確で優雅なコミュニケーションを回復しているひとたちもおおぜいいる。とくに、愛しあう者どうしがそうだね。これも、大きな真実を裏づけている。思いやりはコミュニケーションを創造するという真実だ
深い愛があれば、事実上、言葉は必要ない。逆も真実だ。多くの言葉を弄する必要があればあるほど、相手を思いやる時間が少なくなる。思いやりはコミュニケーションを生むからだ。究極的には、ほんとうのコミュニケーションはすべて真実を伝える。そして、究極的には愛だけが唯一の真実だ。
だから、愛があればコミュニケーションもある。コミュニケーションがむずかしいというのは、愛が充分に存在しないしるしだよ。

ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話3』第20章pp.515-516

以上、言語学的制約から自由になるために。