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ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』にて

ジェイムズは、純粋経験のあり方を、次のように説明しています。

たとえば、この「ペン」は、その最初の瞬間には、ひとつののっぺらぼうなあれ、所与、事実、現象内容、もしくは何であれ人が中立的ないし両義的な言葉で好きなように呼んでよいものである。わたしは右の論文(第1章)ではこれを「純粋経験」と名づけた。
それが物理的なペンとして分類されたり、ある人のペンの知覚として分類されるためには、それはある機能をもたなければならないが、その機能が生じるのはもっと複雑な世界においてのみである。
それがその世界で固定した形をもち、インクを含み、紙に印をつけ、人の手の導くままに動くかぎり、それは物理的なペンである。これがペンにおいて「物理的」といわれることの意味である。
反対に、それが不安定で、わたしの目の動きに応じて現れたり消えたりし、わたしの空想と呼ばれるものに連動して変化し、それは「かくかくであった」という過去形で表されるような、後続する諸経験に連続しているものであるかぎり、それはわたしの精神の内なる知覚内容としてのペンである。こうした特異性がペンにおいて「意識的」といわれることの意味である。

――pp.130-131第4章

意識的な「ペン」や物理的な「ペン」にとらわれないで、「それ」と遭遇する直覚は、多次元的存在となりつつある人間にも欠かせません。多元的宇宙の自覚が、日常の純粋経験に、価値や意味を与えるのです。

人は自分が行為していると考えていても、誰かに押されてそうしていることがある。人は自分がこれを行っていると考えていても、夢にも思わない別のことを行っていることがある。たとえば、自分が一杯の酒を飲んでいるだけだと考えていても、本当は命を奪う肝硬変を生じさせていることがある。あるいは、自分がこの商談に応じているだけだと考えていても、スティーヴンソンがどこかでいっているように、人類全体にかかわる政策の一部を担ってしまっていることだってあるのである。

――pp.113-114第3章

個人的な純粋経験と多元的宇宙は、どのように繋がっているのか。

われわれは、広い拡がりの活動性と狭い拡がりの活動性が、自分たちの生において一緒に作用しており、そのどちらもが本物であって、長い拡がりをもった傾向性が短いもののために奉仕し、短いものが別の方向に進みそうになれば、それを制止するであろうと素朴に信じており、人間として、また人間の生をドラマとして捉えたいという劇的な関心からも、そう信じたいと思っている。しかしながら、そうした大きな傾向性がいかにして小さな傾向性の舵を取るのか、その手口、やり方を明確に表現することは、形而上学的思想家たちがこれから何年もかかって熟慮しなければならない、深遠な問題である。そして、長期的傾向による短期的傾向の舵取りについて、やがて明確な描像がえがかれることがあるとしても、この現実の世界でそれがどのくらいの範囲まで成功するものであるかという問いは、事実の詳細な探究をまって初めて答えられるであろう。

――pp.120-121第3章

以上、言語学的制約から自由になるために。