見出し画像

モーテン・H・クリスチャンセン/ニック・チェイター『言語はこうして生まれる』にて(人工知能)

今回の記事は、過去の記事「モーテン・H・クリスチャンセン/ニック・チェイター『言語はこうして生まれる』にて」の追記です。終章「言語は人類を特異点から救う」から取り出します。

これからは人間の会話に新種の言語使用者が加わってきそうな気配がある。それは人間自らがつくりだしたもの、すなわち人工知能(AI)である。――p.304

AIシステムは、人間とは違ったかたちで言語を理解し、知識をコード化しているわけではない。むしろ、言語をまったく理解しないままで興味深い有益なタスクを実行できるのがAIシステムなのである。――p.309

終章「言語は人類を特異点から救う」

 比喩的にいえば、GPT-3(文章を作成するAI)に対する人間の言語は、自動車に対する馬のようなものだ。たしかに馬は、最も効率のよい人間輸送手段としては自動車やバスや列車にとってかわられている。しかし、自動車を人工馬と思う人がいるだろうか! 自動車は草を代謝できず、繁殖もできず、子育てもできず、多種多様な地形を進んでいくことも柵を飛び越えることも馬場演技を学ぶこともできない。自動車はべつに人工馬の創造に向かって進んでいるわけではなく、もちろん「スーパーホース」もめざしていない。むしろ自動車は、馬にできる無数のことのうちの一つ(つまり人と物を運ぶこと)をやっているわけで、それを非常にうまくやってはいるが、そのやり方は馬とはまったく異なっている。人間とAIの関係も同様だ。GPT-3やそれに類する人工システムは、創造的なジェスチャーゲームを通じてではなく、驚異的な量のデータの選別と統計的分析の実行を通じて言語を操る。
 もう一つの明らかな例が翻訳だ。最先端の翻訳システムがやっていることは、言語にある統計的パターンを学習し、異言語間の統計的な合致を見つけ(人間によって翻訳されてきた文書をマッチングさせ)、それらをまとめあげることであり、そうすると、ある言語での単語の並びが別の言語での単語の並びと驚くほどうまく合致しているのである。そしてこの処理に、豊かな隠喩的プロセスはまったく介在していない。過去の会話や経験や、世界についての知識にもとづいて意図される意味にセンテンスをぴたりと写像するプロセスがごっそり抜けている。ある言語での単語の並びと別の言語での単語の並びとのあいだで統計的に写像をするだけなら、どちらの意味も知る必要がない。いうなればコンピューターは、コミュニケーション氷山の先端部分――単語、句、文――しか相手にしていない。コミュニケーション氷山の水面下に隠れた部分、すなわち人間の言語を可能にしている文化的、社会的なあらゆる知識からなる部分をまったく考慮に入れていない。だからコンピューターからすると、あの第1章で見た六単語の物語――「売ります。赤ん坊の靴。未使用」(“For sale, Baby shoes, Never worn”)――も、典型的な案内広告以外の何物でもない。深い悲しみも、心痛も、人間の読者なら多くが抱くであろうどんな感情も呼び起こさない。――pp.312-313

終章「言語は人類を特異点から救う」

最近話題のチャットGPT(対話に特化したAI)も人間の感情がわかりません。AIならではの言語ゲームをしているだけです。それでも、AIが作る優れた文章が、当事者意識に欠ける批評家や無責任な提案型営業マンを、つまり、言葉遣いが上手いだけの人間を、一掃することになるだろう。

以上、言語学的制約から自由になるために。