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延命治療は生き地獄~タントラマンへの道(第55話)

胃ろうを受け入れざるを得なかった実情

父は入院先の病院での滞在期限を迎えた際、療養型の病院に転院するか、それとも在宅介護にするかの選択に迫られたのですが、どちらを選択するにしても「胃ろう」が必須だと言われました。

本人も家族も「胃ろう」は延命治療だと考えていたので拒絶したかったのだけれど、医師からは「胃ろう」は延命治療ではないと説得されてしまい、結局、胃ろうを造ることになってしまったのです。

父は寝たきりで、飲食も出来ないし、声もなかなか出せない状態だったけれど、頭はハッキリしていたので在宅介護を選択したのでした。

母による老々介護の限界を感じた僕が、新築の家を手放して実家に戻って来た時には、在宅介護が始まってから半年ほど経過していました。

拷問に等しい寝たきり生活

父は、認知症の気配など一切ない明晰な思考能力を維持していたにも関わらず、声は出せてもちゃんとしゃべれない、喉が渇いても自力で唾液を飲み込むことも出来ない、痰が絡んでも自分では吐き出せないので吸引してもらわないといけないけど、その吸引がまた苦しい、大便も小便もおむつの中に垂れ流すしかなく、それを家族やヘルパーに処理しもらわなければならない状態でした。

それは、まさに生き地獄そのものだったことでしょう。

でも、胃ろうをし続ける限り必要な栄養は供給されるので、たとえ本人が生きる意欲を失っていたとしても、たとえ植物人間になってしまったとしても生命力が続く限り生き続けることになってしまうのは本当に可哀そうでした。

後に僕も、心臓手術後にたったの1日半だけですが完全寝たきりを体験した際には、その当時の父の苦しみがどれほど辛いものだったのかを少しは自分事として想像できた気がしました。

でも僕の場合は嚥下も出来たし、便意を催した際には、かわいこちゃん看護師に下の世話をしてもらうのはなんとしても避けたかったので、決死の覚悟が必要だったとは言えどもトイレまで行って自力で用を足すことができたわけですから、父の苦痛と比べたらはるかにましだったはずです。

そして、その程度の状態でさえ、1年以上も耐えることは自分には絶対に無理だと感じたものでした。

父の懇願

僕も母も、先の見えない介護生活の日々が延々と続く中で
、気持ちが晴れることはありませんでした。

父は、大好きだった音楽を聴きたいという気持ちも失くしてしまっていましたし、本来は犬好きだったのに、僕が移住先から連れ帰って来た新しい愛犬に会うことも拒絶していました。

ある日のこと、胃ろう食を注入しようとしたとき、父は両手をクロスして「✖」サインを出しました。
「もう、止めてくれ」という意思がハッキリ伝わってきました。

父にこれ以上生き地獄を味わわせるのは辛かったので、担当医に相談しました。
結果、胃ろう食を与える量を少しずつ減らしていくことになりました。
要は、ゆるやかに「餓死」させるということです。

それからしばらくして、父はやっと生き地獄から解放されました。

父は在宅介護に移行する時点では、既に回復する見込みは無かったのですし、本人も家族も延命治療は望んでいなかったのですから、たとえ胃ろうを増設する手術は避けられなかったとしても、最初から徐々に胃ろう食の量を減らす方針を採用していれば、こんなにも長い間苦しまずに済んだはずです。

僕は、胃ろう食を食事と呼ぶことはできません。
なので、もし、胃ろうが必要な状況に陥ってしまった場合には、胃ろうなどせずに自然な形で死を迎えることを望むという意思表示をしておくつもりです。

でも、それは最悪の場合です。
理想は、以前書いたような死に方です。
そのためにも、元気なうちから健康的な食事を心がけておくに越したことはないのです。

ところが、それは今だからこそ言えるのであって、父を見送った時点では、まだそこまで真剣に考えてはいなかったために、やがて、大変な思いをすることになってしまうのでした。











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