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そろそろ,「前向き」をやめたい

今日は,表題の思い付きポストです。


前向きは美徳か?

社会には共有された暗黙の価値観があり,
「前向き」や「思いやり」は良いことだが,
「立ち止まった」り「殻に閉じこもる」ことは良くないことだされる。

しかし最近は,そうした価値観が,社会的コストを下げるための誰かの思惑のように思えてきた。そもそも人生をトータルで考えれば,「立ち止まった」り「殻に閉じこもる」時間の方がはるかに長いはずだ。私はもう十分に頑張ったのだし,社会から要求された価値観など捨てて,もっとわがままに生きて良いのではないかと。

「人生の午後」を直視できない大人たち

心理学者ユングは,太陽でいえば真上に来る”正午”に相当する人生の折り返し地点からを「人生の午後」と呼んだ。人生100年時代を迎えた現代の正午が45~50歳くらいだとすれば,私はもう”正午”を過ぎてしまった。

ユングによれば,”正午”を迎えた人のテーマは,沈んでいく自分に備えることにある。
日が沈むのと同じように,今後は自分の体力も気力も収入も落ちていく。
上昇することを前提に頑張れた”午前”とは,人生のテーマが大きく異なる。

しかし多くの人は,「沈んでいく自分」を直視できずに,仕事をため込む。
仕事に取り組んでいれば,周囲から必要とされていれば,「自分は沈んでいない」という幻想を抱くことができるからだ。
幸か不幸か,正午を迎えた頃には,それまでの実績や人脈などで,さほど頑張らずとも仕事をこなせるようになっている。若い者から頼りにされる存在にもなっているはずだ。
仕事に充実を覚えていた私も,定年まで勤めるつもりだった。

しかし最近,組織人として求められる「前向き」や「思いやり」に,ホトホト疲れてきた。もう大して必要としていない収入のために,前向きな良い人を演じる必要などあるのだろうか。それが,とてつもない人生の無駄使いのように思えてきた。

仕事は楽しかったし,スリルもあった。
十分やり切ったし,どちらかといえば勝者に終わっただろう。
でも私は,「人生の仕事」を何ひとつ終えていないのではないか。

”後ろ向きライフ”のすすめ

「誰でもない自分」「そこらのおじさん」
私がわめこうが叫ぼうが,平然と動いていく社会。

若い頃はそういうことに抗って,「もっと上を」「もっと前を」目指して頑張ってきた。社会からのお墨付きを得た”良いこと”でもあったので,迷わず頑張れた。

しかし,「人生の午後」に入った今となっては,そろそろ無駄な戦いはやめた方が良いのではないかと思えてくる。
「前向き」用の席は若い者に譲って,私はもっとじっくり立ち止まったり,殻に閉じこもったりしても良いのではないか。
世間でいう後ろ向きは,私にとっての前向きなのではなかろうか,と。

人生の正午より後には、午前中影だったところにも光が当たる。午前の昇る太陽の勢いは凄まじいが、その勢いゆえに背景に追いやったもの、影(シャドー)になってしまっていたものがある。それらをしっかり“統合”していくことが、人生の正午以降の課題である。ゆえに、深い意味で「真の個性化」は40歳以降に始まる。

ユング(出所不明)

手に入れたものを捨てるのは勇気がいるが,
それをせずに,"後ろ向きな人生"を楽しむことはできないのかもしれない。

最近,そんなことばかり考えている。


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